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'''東 八郎'''(あずま はちろう、本名:'''飛田 義一'''(ひだ ぎいち)、[[1936年]][[5月31日]] - [[1988年]][[7月6日]])は、[[東京府]][[東京市]][[浅草区]] (現・[[東京都]][[台東区]][[浅草]]) 出身の[[日本]]の[[コメディアン]]、[[タレント]]。昭和時代を代表するコメディアンの一人である。妻との間に3男2女があり、次男にお笑いコンビ[[Take2]]の[[東貴博]]、三男にタレントの[[東朋宏]]がいる。
 
== 来歴・人物 ==
[[東京府]][[東京市]][[浅草区]](現・[[東京都]][[台東区]][[浅草]])の出身。父は[[岐阜県]][[大垣市]]出身で[[皇宮警察官]]であった。戦時中に家族とともに[[名古屋市]]に疎開した。名古屋時代の親友にプロゴルファー[[塩谷育代]]の父親がい
 
中学卒業後コメディアンを志して歌手の[[田谷力三]]に弟子入り、そして[[浅草公園六区]]の[[浅草フランス座]]などで活躍する(この頃のフランス座には、[[関敬六]]、[[長門勇]]、[[渥美清]]、[[伊東四朗]]など後に有名になったコメディアンたちが出演していた。)。ちなみに、東八郎の芸名はフランス座を経営する'''東'''洋興業創業者の松倉宇'''七'''にちなんだものであった。
 
テレビの台頭と共に浅草の演劇街が衰退してきたため、1964年に[[小島三児]]、[[原田健二 (コメディアン)|原田健二]]と共に[[トリオ・ザ・スカイライン]]を結成し、テレビに進出。コントを行い人気を博した。しかしトリオ・ザ・スカイラインは[[1971年]]に解散し、以降は単独で芸能活動を行った。[[三波伸介 (初代)|三波伸介]]とともに[[日本放送協会|NHK]]『[[お笑いオンステージ]]』にレギュラー出演し、全国区の有名なコメディアンとなった。その後、東八郎劇団を結成して後進の育成にも力を注ぎ、全国各地で喜劇を演じていた。晩年では『[[志村けんのバカ殿様]]』の家老役やおでこに「光」のシールを貼り、BGMに[[フェリックス・メンデルスゾーン|メンデルスゾーン]]の[[ヴァイオリン協奏曲 (メンデルスゾーン)|ヴァイオリン協奏曲]]が流れる「[[日本農産工業|ヨード卵光]]」の[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]が有名であった。なお、[[萩本欽一]]は東の一番弟子であった(ただし年齢差は5歳しかなく、師匠というよりは同じ劇場に出演している面倒見の良い兄貴分といった関係であった)。東の直弟子には他にすず風金魚([[すず風にゃん子・金魚]])がいる。
 
また人気コメディアンとしてテレビや舞台を数多くこなし、[[アリオラジャパン|RCAビクター]]から『娘へのバラード』([[1981年]])を出すなど歌手活動も行っていた。『娘へのバラード』は、[[結婚]][[披露宴]]で歌われる[[定番]]曲のひとつとして広く知られている。
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[[1986年]]に芸能人養成のために私塾「笑塾」を開いたが[[1988年]][[7月6日]]の昼過ぎ、東は自宅にて[[脳出血|脳溢血]]で突然倒れ[[日本医科大学付属病院]]へ救急車で緊急搬送されたが、意識が回復することはなく同日15時30分に52歳で急逝した。
 
東の死で「笑塾」(塾生約30名)が解散となった際、志村は「(当時の)自分には一人しか面倒を見てやれる余裕がないが、誰かの面倒を見たいね」と申し出た。この時、志村の付き人に採用されたのが[[ジョーダンズ]]の[[山崎まさや]]だった。「笑塾」出身者は他に[[桂米多朗]]、[[ぴろき]]、[[斎藤哲也]]らがいる。
 
東の持ちネタである「頑張れ、強いぞ、僕らのなまか〜」は、『[[赤胴鈴之助]]』のテーマ曲の替え歌で「仲間」が訛って「なまか」となった。「なまか」は後に、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]ドラマ『[[西遊記 (2006年のテレビドラマ)|西遊記]]』で[[SMAP]]の[[香取慎吾]]が扮する[[孫悟空]]の口癖として使われた。
 
== 出演番組 ==