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'''ドイツ王国'''(ドイツ語:Deutsche Reich)は、通常は9~10世紀に[[東フランク王国|東フランク]]に成立し<ref name=S25>シュルツェ、p. 25</ref>、[[神聖ローマ帝国]]の中核となった王国をいう。しかし、中世や近世では公式にはこの言葉は用いられず、史料では単に「王国(regnum)」と呼ばれた<ref name=S25 />。また、ドイツで最も古くに「ドイツ王国(regnum Teutonicorum)」の語が用いられたのは、『ザルツブルク年代記([[:en:Annales iuvavenses|Annales iuvavenses]])』においてであるが、実際にこの語が使われたのは11世紀以降と考えられている<ref>瀬原、p. 67。919年のバイエルン公[[アルヌルフ (バイエルン公)#統治|アルヌルフ]]に関する記述であるが、現存する年代記が後年の書写本のみであり、その書写の際に別の語から「Teutonicorum」に書き換えられたと考えられている(三佐川、p. 102)。</ref>。
 
[[東フランク王国]]からドイツ王国への形成は、東フランク王国がフランク人以外の[[アラマンニ人|アレマン人]]、[[バイエルン人]]、[[チューリンゲン]]人、[[ザクセン人]]、[[フリース人]]などの定住地まで次第に領域を拡げていく長期の過程の中で、多くの段階を経て進み、同時代人はほとんど意識していなかったと考えられている<ref name=S26>シュルツェ、p. 26</ref>。このため、ドイツ王国の成立時期に関しては、議論が分かれるところであり<ref name=S28>シュルツェ、p. 28</ref>、具体的に述べることは困難とされている<ref name=S26 />。
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* 部族大公領の形成
* 国王による教会支配の強化
 
また、9世紀末から王国の文化的活動の中心地となった[[ザンクト・ガレン修道院]]や[[マインツ]]においては、フランク語由来の言語「lingua theodisca」に代わり、それと原ゲルマン語の融合した言語「lingua teutonica」が用いられるようになり、この言語面での変化も東フランク王国からドイツ王国への移行段階の一つととらえられている<ref>瀬原、p. 60-61</ref>。
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* ハンス・K・シュルツェ 『西欧中世史事典Ⅱ』 ミネルヴァ書房、2005年
* 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年
* 三佐川亮宏 『『ザルツブルク大編年誌』920年の項に見える”ドイツ王国”概念の同時代性をめぐって』 東海大学紀要文学部、65(1996)、p. 37-104
 
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