「ニコラウス・コペルニクス」の版間の差分

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コペルニクスの説が完全に受け入れられるまでには100年以上の時がかかり、また発表から数十年間は目立った動きは起きなかったものの、最終的にはコペルニクスの説は世界観そのものを覆すような大きな影響力を持つこととなった。18世紀後半には、哲学者[[イマヌエル・カント]]が「[[コペルニクス的転回]]」という言葉を作り、やがてこの言葉が[[パラダイム]]転換と同じような意味で使われるようになったのも、コペルニクスの業績が広く受け入れられるようになったひとつの証左である。
 
== 『天体の回転について』とローマ教皇庁・キリスト教 ==
上記のとおり、コペルニクス存命中および死後数十年の間は、コペルニクスの理論についてローマ教皇庁が反対をするなどということはなかった。コペルニクスは存命中にすでにこの考えを公表しており、1533年に教皇クレメンス7世にこの考えが伝わっていること、およびその下にいた枢機卿ニコラス・シェーンベルクが1536年にこの考えに対し賞賛の手紙をコペルニクスに送っていることからもこれは明らかである。逆に[[プロテスタント]]、特にコペルニクスの活動期に急速に勢力を伸ばしていたルター派においても、明確にこの考えに関して反対をしているというわけではなかった。[[マルティン・ルター]]本人はコペルニクスの考えに対して明確に拒否反応を示し、聖書から外れていると批判している。宗教的見地からの地動説反対論としてはこれは最も早い時期のものである。しかしながら、ルター派においてもコペルニクスを支持するものは多かった。『天体の回転について』の出版を主導したレティクスはルター派であったし、彼の人脈で出版にこぎつけた関係上、この書籍の出版にかかわったものはルター派が多くを占めている。校正及び最終的な出版を担当したアンドレアス・オジアンダーもルター派の神学者であった。こうしたことから、カトリック・プロテスタント両派において、『天体の回転について』は禁止されていなかった。
[[1616年]]、[[ガリレオ・ガリレイ]]に対する裁判が始まる直前に、コペルニクスの著書『[[天体の回転について]]』は、ローマ教皇庁から閲覧一時停止の措置がとられた。これは、地球が動いているというその著書の内容が、『[[聖書]]』に反するとされたためである。(因みに「聖書」には天動説が載っているわけではなく「初めに、神は天地を創造された」という記述があるだけである。)
 
しかし、[[1616年]]、[[ガリレオ・ガリレイ]]に対する裁判が始まる直前に、コペルニクスの著書『[[天体の回転について]]』は、ローマ教皇庁から閲覧一時停止の措置がとられた。これは、地球が動いているというその著書の内容が、『[[聖書]]』に反するとされたためである。(因みに「聖書」には天動説が載っているわけではなく「初めに、神は天地を創造された」という記述があるだけである。)
ただし、禁書にはならず、純粋に数学的な仮定であるという注釈をつけ、数年後に再び閲覧が許可されるようになった。