「葛城弘樹」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
編集の要約なし
24行目:
 
== 経歴 ==
[[愛媛県立松山商業高等学校|松山商]]の頃からでは[[二塁手]]を務めとして{{by|1980年}}秋季四国大会に進むが1回戦で[[高知市立高知商業高等学校|高知商]]に敗退、その後も甲子園には届かなかった。[[国士舘大学硬式野球部|国士舘大学]]を経に進学。当時二部リーグに低迷しいた国士舘大だが、{{by|1983年}}秋季リーグに一部昇格を果たす。しかし{{by|1985年}}秋季リーグでは部員の不祥事により出場停止処分を受けた。

卒業後は[[東芝硬式野球部|東芝]]に入社。{{by|1987年}}の[[第58回都市対抗野球大会|都市対抗]]で若獅子賞を獲得した<ref>毎日新聞、1987年8月6日付朝刊、P.1</ref>。翌{{by|1988年}}は[[ソウルオリンピック野球日本代表]]に選ばれ、全試合に[[三塁手]]として先発出場した。予選の対[[野球中華民国代表|台湾]]戦以外は一番打者を任されたものの、5試合で19打数ノーヒットに終わっている<ref>別冊宝島、1545号、P.70</ref>。
 
東芝では二番打者を務め、主将に就任した<ref name="mainichi_19950315">毎日新聞、1995年3月15日付朝刊、P.25</ref>{{by|1992年}}の[[第20回社会人野球日本選手権大会]]では準決勝<ref>毎日新聞、1992年10月17日付朝刊、P.20</ref>、決勝<ref>毎日新聞、1992年10月18日付朝刊、P.15</ref>ともにタイムリーを放って優勝に貢献した。{{by|1993年}}の[[第64回都市対抗野球大会]]はチームが予選で敗退したものの、[[谷口英規|谷口英功]]や[[須田喜照]]らとともに[[JX-ENEOS野球部|日本石油]]に補強されて六番・二塁手としてポイントゲッターとしての役割を期待された<ref>[http://www.jx-group.co.jp/baseball/eneosfan/seishun/e71_cobase_027.html JX-ENEOS野球部インタビュー 石崎栄司]</ref>。決勝戦では延長にダメ押しのタイムリーを放つなど、期待に応えて日本石油の優勝に貢献している<ref>毎日新聞、1993年8月1日付朝刊、P.13</ref>。