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=== 太平洋戦争 ===
==== 軍令部第一部長 ====
[[1941年]](昭和16年)4月10日、[[軍令部]]第一部長。福留は戦艦による[[日本海海戦]]のような大勝利のために戦略戦術の神様と称えられを立いた<ref>吉田俊雄『海軍参謀』文春文庫</ref>。しかし真珠湾攻撃などの空母機動部隊の活躍後もやはり決前における海軍力は戦艦[[巨砲主義]]者あり、[[航空戦]]へ機動部隊はそ理解補助欠けたとも言われる。悪過ぎな意味での日本海軍の成績重視教育での賜物もいうべき思と人物像に加ており教科書通り戦術・戦略しか立てられず、柔軟性に欠けていた福留力関係、既に近代ミッドウェー作を任せられでもなお変わ人材とはいえなかった<ref>吉田俊雄『海軍参謀』文芸春秋178頁</ref>
 
12月8日、[[太平洋戦争]]勃発。[[1942年]](昭和17年)4月、[[第二段作戦]]立案の際に、ハワイ攻略を目指す連合艦隊が求める[[MI作戦]]と同時にアリューシャン方面の米軍進攻阻止を目的とした[[AL作戦]]を軍令部が加えた件に関して、福留は「ミッドウェーを攻略しても、劣勢な米艦隊は反撃に出ないのではないかとの懸念が強かった。そこで[[アリューシャン列島]]方面への攻略作戦を行えば、同地が米国領であるため、ミッドウェー方面への米艦隊の出撃を強要する補助手段となるだろうとの含みもあり、実施を要望した。」と回想している<ref>戦史叢書43ミッドウェー海戦48頁</ref>。11月1日、海軍[[中将]]へ進級
 
そこで[[アリューシャン列島]]方面への攻略作戦を行えば、同地が米国領であるため、ミッドウェー方面への米艦隊の出撃を強要する補助手段となるだろうとの含みもあり、実施を要望した。」と回想している<ref>戦史叢書43ミッドウェー海戦48頁</ref>。11月1日、海軍[[中将]]へ進級。
 
==== 連合艦隊参謀長 ====
[[1943年]](昭和18年)5月23日、連合艦隊参謀長。[[海軍甲事件]]に伴い連合艦隊司令長官となった[[古賀峯一]]海軍大将に要請された人事だった。しかし、戦況はすでに日本にとって不利となりつつあり、戦術戦略の神様とまでおだてられていたという福留も、実際は頭の固い人物であり、伝統的な艦隊決戦主義から脱却できず、有効な作戦を打ち出せないまま日月を費やすのみだった。
 
===== 海軍乙事件 =====
{{main|海軍乙事件}}
[[1944年]](昭和19年)3月31日、[[海軍乙事件]]発生。連合艦隊は内南洋の拠点としてパラオを利用していたが、3月に連合軍の大空襲を受け、福留ら司令部要員は3月31日、ミンダナオ島のダバオへ飛行艇(二式大艇)で移動を図ったが、途中で低気圧に遭遇し、連合艦隊司令長官・[[古賀峯一]]の乗機は行方不明となり、福留の乗った二番機はセブ島沖に不時着し、搭乗していた9名は泳いで上陸したが、ゲリラの捕虜となり、3月8日に作成されたばかりの[[新Z号作戦]]計画書、司令部用信号書、暗号書といった数々の最重要軍事機密を奪われた。ゲリラに対して警戒心を抱かなかった福留らは拘束時に抵抗や自決、機密書類の破棄もしなかった(かばんを川に投げ込んだが、すぐに回収された)。
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7月23日、図上演習で第二航空艦隊は、昼間攻撃、薄暮攻撃、[[T攻撃部隊]]による夜間攻撃の三者を攻撃部署として各種組み合わせによって第1から第4まで定め、状況に応じてそのいづれかを適用する戦法を示した。これは後日、[[第六基地航空部隊]]が規定した戦策に発展したものである。この2航艦が示した作戦実施過程は、索敵の結果以外、作戦指導、戦果報告、損害など[[台湾沖航空戦]]と類似した内容であった。また、次期決戦の主力を自負する第二航空艦隊司令部は、たとえ敵来攻方面が[[第三航空艦隊]]の担任要域でも2航艦が全基地航空部隊を統一指揮すべきであり、3航艦は支援に回るべきという思想を持っていた<ref>戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで209-210頁</ref>。
 
9月、T攻撃部隊の総合教練が行われる。福留はT攻撃の成立を疑問視しており、T攻撃部隊は決戦の一撃に夜間攻撃で使用し、悪天候下に乗じるのは最後の切り札として決行と表明する。連合艦隊司令長官・[[豊田副武]]大将は部隊用法については福留に一任し、不能の時は無理をすることはないと話した<ref>戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで321頁</ref>。
 
福留は、10月10日の那覇空襲を受けて、T部隊に夜間攻撃を命令するが断念。10月11日早朝に索敵を行い、正午に機動部隊を発見すると18時30分、翌日の作戦要領を発令した<ref>戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで620頁</ref>。この発令で10月12日から台湾沖航空戦が発生し、第二航空艦隊は大戦果を報告したが、後に戦果誤認が発覚する。
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[[極東国際軍事裁判|東京裁判]]において[[戦犯]]に指定され、英軍戦犯として禁固三年。[[1950年]](昭和25年)に復員した。
 
[[野村吉三郎]]元海軍大将を中心とした旧海軍高級士官グループの一員として、「海軍の伝統」を保持しての再軍備を目指す活動を行った。後に[[水交会]]理事長も勤めた。[[吉田俊雄]]は、福留の自著である『海軍の反省』の中での戦術指揮に関する反省記述について、「内容は真摯に反省しているように思えたが、その後の文面には自己弁護のような下りもあった」と指摘している
 
[[1971年]](昭和46年)に死去した。墓所は[[多磨霊園]]6区1種6側。
 
== 人物 ==
[[吉田俊雄]]中佐は福留について、海大の成績優等卒業生であり、戦略戦術の神様と称えられていたが、理論・作戦に福留独自のものは残っておらず、独創者ではなくあくまで祖述者であったと評している<ref>吉田俊雄『海軍参謀』文芸春秋196-197頁</ref>。
 
== 年譜 ==