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==== 連合艦隊参謀長 ====
[[1943年]](昭和18年)5月23日、連合艦隊参謀長。[[海軍甲事件]]に伴い連合艦隊司令長官となった[[古賀峯一]]海軍大将に要請された人事だった。古賀長官は開戦以来横須賀にいて実戦をほとんど知らなかったこともあり、海大恩賜のエリートで戦略戦術の神様と評価が高かった福留に頼り切っていたが、刻々と変化し、劣勢の戦局に対応できる能力が福留には欠けており、いつまでも古い戦艦至上主義の考えから抜けきれなかった<ref>千早正隆ほか『日本海軍の功罪』プレジデント社263頁</ref>。
1943年11月以降に実施された[[ギルバート諸島沖航空戦]]や[[ブーゲンビル島沖航空戦]]において連合艦隊は大戦果を報告したが、これらは戦果誤認であった。当時の軍令部第一部長[[中澤佑]]少将によれば、連合艦隊司令部の報告から不確実を削除し、同司令部に戦果確認に一層配慮するように注意喚起していたが、同司令部より「大本営は、いかなる根拠をもって連合艦隊の報告した戦果を削除したのか」と強い抗議電が福留参謀長名で打電され、結局反論なくうやむやになり、1944年10月に福留が第二航空艦隊長官として実施した[[台湾沖航空戦]]でも誤認戦果をそのまま報じることになったという<ref>戦史叢書37 海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで 726頁</ref>。
{{main|海軍乙事件}}
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[[マリアナ沖海戦]]敗北後の6月19日、[[第三四一海軍航空隊]]司令・[[岡村基春]]大佐は福留と参謀長。[[杉本丑衛]]大佐に「戦勢今日に至っては、戦局を打開する方策は飛行機の体当たり以外にはないと信ずる。体当たり志願者は、兵学校出身者でも学徒出身者でも飛行予科練習生出身者でも、いくらでもいる。隊長は自分がやる。300機を与えられれば、必ず戦勢を転換させてみせる」と意見具申した。数日後、福留は上京して、岡村の上申を軍令部次長・[[伊藤整一]]中将に伝えるとともに、中央における研究を進言した。伊藤は総長への本件報告と中央における研究を約束したが、まだ体当たり攻撃を命ずる時期ではないという考えを述べた<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 p333</ref>。
{{main|台湾沖航空戦}}
7月23日、図上演習で、軍令部は荒天により発着困難な昼間に行うT攻撃を本旨として、機会がない場合は敵の活動が不十分な夜間に攻撃する案を出したが<ref>戦史叢書45大本営海軍部・聯合艦隊(6)第三段作戦後期 290頁、戦史叢書37海軍捷号作戦(1)台湾沖航空戦まで309-310頁</ref>、一方で指揮権を有する第二航空艦隊は、昼間攻撃、薄暮攻撃、[[T攻撃部隊]]による夜間攻撃の三者を攻撃部署として各種組み合わせによって第1から第4まで定め、状況に応じてそのいづれかを適用する戦法を示した。これは後日、[[第六基地航空部隊]]が規定した戦策に発展したものである。この
{{main|神風特別攻撃隊}}
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