「ウラジオストク巡洋艦隊」の版間の差分

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[[File:Bogatyr'1905Vladivostok.jpg|thumb|200px|1905年に撮影された修理後の防護巡洋艦「ボガトィーリ」。]]
しかしながら、この言葉が悲劇を生んだ。ロシア艦隊を助けた霧に対しては細心の警戒が必要であり、ひとたび誤れば大災害が生じるのである。[[5月15日]]([[5月2日]])、霧中を10 knで進んでいたボガトィーリは航路を誤り、危険海域に踏み入れた。そして、{{仮リンク[[ピョートル大帝湾|アムール湾|en|Amur Bay|}}]]の[[ブリューサ岬]]において岩礁に衝突、艦体に破孔が生じ、着底した<ref>{{Lang|ru|2=[http://infoart.udm.ru/history/navy/artc0009.htm Скалы мыса Брюса.]}}</ref>。これが、艦隊にとって最初の戦力損失となった。結局、この艦は終戦まで修理を終えることができなかった。
 
[[旅順港閉塞作戦]]を行う日本軍に対し、ウラジオストク巡洋艦隊は主力艦隊を支援するため、旅順へ{{要検証|date=2011年7月}}巡洋艦を派遣した。[[6月12日]]([[5月31日]])に{{仮リンク|ピョートル・ベゾブラーゾフ|ru|Пётр Безобразов|}}提督が「ロシア」、「グロモボーイ」、「リューリク」を率いて出撃し朝鮮海峡へ向かった<ref name="000c">日露旅順海戦史、203ページ</ref>。6月15日、筑前沖で陸軍運送船和泉丸(3229トン)を撃沈<ref name="000c"/>(イェッセンはウラジオストクに残った「ボガトィーリ」に将官旗を掲げた<ref name="Melnikov1989-08"/>)。続いて近衛後備歩兵第一連隊などを載せた「常陸丸」(6175トン)と第二築城団司令部、攻城砲兵司令部などを載せた「佐渡丸」(6226または6626トン)を発見し攻撃し、「常陸丸」を沈めた<ref>日露旅順海戦史、204ページ、日露海戦新史、185-186ページ</ref>([[常陸丸事件]])。佐渡丸も損傷させ停船させたが、艦隊は[[魚雷]]を打ち込んで去り「佐渡丸」は沈没を免れ長崎にたどり着いている<ref>日露旅順海戦史、204-205ページ</ref>。この後北に向かった艦隊は[[6月16日]]に[[舞鶴]]沖で[[イギリス]]船「アラントン」(4242または4253トン)を拿捕し[[6月19日|19日]]または[[6月20日|20日]]にウラジオストクに帰投した<ref>日露旅順海戦史、205ページ、日露海戦新史、186ページ</ref>。またこの時期水雷艇も活動しており、[[6月16日]]に[[奥尻島]]沖で[[帆船]]「安静丸」(105トン)と「八幡丸」(136トン)を、[[6月17日|17日]]に「清栄丸」(66トン)を沈め、19日に「博通丸」(69または111トン)を拿捕した<ref>日露旅順海戦史、205-206ページ、日露海戦新史、186ページ</ref>。