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=== 総統選挙 ===
[[2000年中華民国総統選挙|2000年の台湾総統選挙]]では無所属で立候補、[[陳水扁]]、[[連戦]]と三つ巴の激しい選挙戦を展開した。台湾省長時代に築いた人気から序盤の選挙戦を有利に進めたものの、選挙戦中盤である[[1999年]]12月に国民党中央委員会秘書長時代の金銭スキャンダル(中興証券事件<ref>宋楚瑜が国民党中央委員会秘書長であった1992年当時、彼の長男名義の口座に巨額(約1億4千万台湾元)の出所不明金が振り込まれていたとされる事件。</ref>)が報じられたこと、連戦と保守層の票を食い合う結果になったことなどの理由で、陳水扁に僅差で敗れる(陳水扁得票率39.30%、宋楚瑜37.84%、連戦23.10%)。選挙後、次期総統選をにらんで同年に[[泛緑連盟]]や[[泛藍連盟]]に代わる第三極である[[泛橘陣営]]として親民党を立ち上げ、党首に就任。
 
[[2004年中華民国総統選挙|2004年の台湾総統選挙]]では国民党主席の連戦と組み、副総統候補として出馬(いわゆる「連・宋コンビ」)するが、連戦の不人気や選挙戦終盤の陳水扁襲撃事件に対する同情票として浮動票が陳水扁陣営に流れたことなどが原因で、再び僅差で落選する(陳水扁陣営の得票率50.11%、連戦陣営の得票率49.89%票差約3万票)。
 
[[2005年]]には連戦の訪中に引き続いて、宋楚瑜も[[北京市|北京]]を訪問して[[胡錦濤]]中国共産党総書記と会談し<ref>[http://www.chinapost.com.tw/news/2005/05/13/62343/Hu-calls.htm Hu calls for conditional negotiations with Chen]</ref>、[[台湾独立]]反対で一致した。
 
=== 引退宣言 ===