「草加宿」の版間の差分
削除された内容 追加された内容
内容追加/概要、豪商農「十六人衆」について。 |
→沿革: 吾妻鏡および鶴岡八幡宮の文書について。 |
||
3行目:
== 概要 ==
== 沿革 ==
=== 背景 ===
草加町の一字であった谷古宇町の記述がある。[[吾妻鏡]]の[[承久]]5年8月7日の條にて「鶴岡八幡宮御分武蔵矢古宇郷司職五十六歩」との記述があり、鶴岡八幡宮の文書に「可令早爲鶴岡八幡宮社領武蔵矢古宇郷可爲社領之状 依仰下知如何 承久三年八月二 日陸奥守平花押」 とあることから、谷古宇(矢古宇)は鶴岡八幡宮の領地であった<ref>前田(1936)、685頁。</ref>。
=== 五街道の整備 ===
[[慶長]]元年([[1596年]])、徳川氏は“陸奥の駅路”奥州街道を定め、慶長7年([[1602年]])、[[伝馬]]人足の設置および継立を義務づけた[[宿駅]]制度を設けた<ref>伝馬の「継ぎ送り」とは、「江戸幕府の公用で旅をする人たちのために、その人たちの荷物を宿場から宿場へと、次から次へリレー方式で受け継いで送ることを言った。このため各宿では、荷物を運ぶための人足と馬を常備することが義務づけられていた。[http://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index2/a0217.htm 東海道の誘い 宿場について 人馬の「継ぎ送り」とはどういうことですか?]国土交通省 関東地方整備局 横浜国道事務所(2016年5月4日配信)(2017年5月6日閲覧)</ref><ref>
65 ⟶ 67行目:
|publisher = 法政大学史学会
|ref= 法政大学 }}
*{{Cite journal|和書|author=前田虎一郎|year=1936|title=街村型聚落の發生並に變遷の一考察 埼玉縣草加町|journal=地理学評論|volume=12|issue=8|page=|pages=681-703|publisher=日本地理学会}}
=== ウェブ ===
*[http://www.city.soka.saitama.jp/cont/s1002/a35/a01/ 草加市『市制施行50周年記念誌 そうか事典』平成20年]草加市HP
|