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[[1914年]](民国3年)、白朗軍は袁世凱軍の包囲を突破して[[安徽省 (中華民国)|安徽省]]に侵入した。2月13日、袁世凱は[[段祺瑞]]を総司令として[[北洋軍閥|北洋軍]]の精鋭を繰り出して白朗を追撃した。追われた白朗は安徽省を離れて湖北省に入り、3月8日に[[老河口]]を占領した。このとき兵力は2万人に達していた。
この後白朗は西進を決意して、3月17日に陝西省に入った。
この白朗の軍(白狼軍)に1913年10月頃から1914年1月初めまで、中国名「王鉄石」として入った日本人がいた。工藤鉄三郎である。工藤は後1932年に満洲国執政溥儀から「忠」名をもらい、戸籍上も工藤忠と改名した。工藤は南京の第二革命軍に参加し、革命軍の崩壊の後、漢口から白狼軍に向かい、江湖会(哥老会)の会員となってから河南省の荊紫関で白狼軍に入り、雲南の革命派2人とも会った。のち工藤は革命派竇家法とともに日本に行き、孫文と黄興に白狼軍との連携を働き掛けたが、孫文・黄興は殺戮・略奪・強姦・破壊を繰り返す白狼軍と手を握ることは、盛んに革命派と白狼軍の連携を宣伝している袁世凱政権の術中に陥るものだと拒否した。しばしば諸研究で強調されている孫文・黄興による白狼軍への働きかけということは、疑問なのである。
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