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| 全名 =
| 出生日 = [[1844年]][[11月2日]]
| 生地 = [[イスタンブル]]
| 死亡日 = [[1918年]][[7月3日]]
| 没地 = [[イスタンブル]]
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
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そしてこれに付け込んだ[[ギリシア]]・[[セルビア王国_(近代)|セルビア]]・[[ブルガリア王国_(近代)|ブルガリア]]・[[モンテネグロ]]などのバルカン4国が同盟を結んで宣戦を布告してくる。これがいわゆる[[バルカン戦争|第一次バルカン戦争]]である。
 
この戦争でもオスマン軍は大敗し、結果として[[ヨーロッパ|欧州]]におけるオスマンの領土、つまり[[イスタンブル]]周辺を除いた領土のほとんどと[[クレタ島]]は4ヶ国に割譲することを余儀なくされた上、[[アルバニア]]が自治侯国として独立することも承認せざるを得なくなった。
 
ただ、[[1913年]]6月に[[マケドニア]]をめぐってブルガリアとセルビア、[[ギリシア]]が争い始めると、オスマン帝国はセルビア・ギリシア側に与して[[トラキア]]地方を取り戻すことに成功した(第2次バルカン戦争)。
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===第一次世界大戦===
[[File:Sultan Mehmed V of Turkey greeting Kaiser Wilhelm II on his arrival at Constantinople.jpg|thumb|240px|[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]を迎えるメフメト5世(イスタンブル、1917年)]]
 
[[1914年]]7月、[[第一次世界大戦]]が発生すると、オスマン帝国は同年10月にドイツとの同盟を理由にドイツ側として参戦し、[[ロシア帝国|ロシア]]領を攻撃するに至った。
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しかし多少の成果もあった。[[三国協商]]([[連合国 (第二次世界大戦)|連合国]])軍が[[帝国]]の中枢[[ガリポリ半島]]への侵攻を試みるも、[[ケマル・アタテュルク|ムスタファ・ケマル]]らオスマン軍は翌年に撃退。
 
強国と謳われた[[大英帝国]]を破った事でオスマン帝国は、一時的にではあるが昂揚し、帝国の維持に成功している。この[[ガリポリの戦い]]の勝利のお陰で[[イスタンブル]]は死守され、皇帝も安寧を保つことが出来た。
 
[[1916年]][[2月]]にはメフメト5世は同盟国[[ドイツ帝国]]より[[元帥 (ドイツ)|元帥]]位を授与されている。
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[[1918年]][[7月3日]]、メフメト5世はこうした情勢の中73歳で死去し、弟の[[メフメト6世]]が跡を継いだ。
 
[[2010年]][[5月28日]]、メフメト5世の孫であるハサン・オルハン皇子が[[エジプト]]の[[カイロ]]で癌により死去した。オルハン皇子はカイロで教職に就いていた。遺言で父親が埋葬されている[[イスタンブル]]のエユプ・スルタンに埋葬されることを望んでいたが、外交上の問題で叶わず、カイロに埋葬された<ref>[http://www.el.tufs.ac.jp/prmeis/html/pc/News20100529_090509.html]</ref>。
 
==参考文献==