「三国協商」の版間の差分

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これによって外交的に孤立したロシアは同じく孤立していたフランスに接近し、翌年の[[1891年]]から[[1894年]]にかけて交渉を行い、[[1891年]]に政治協定を、次いで[[1894年]]に軍事協定を成立させた([[露仏同盟]])。
 
その動きを見たドイツは行動に移り、いわゆる[[3B政策]]([[バグダード]]・[[イスタンブル|ビザンティウム]]・[[ベルリン]])を推進して[[西アジア]]への進出を図り、イギリスの[[3C政策]]([[カイロ]]・[[ケープタウン]]・[[コルカタ|カルカッタ]])との対立を深めていった。こうなると最強国イギリスの力をもってしても西アジアにおけるドイツ・[[東アジア]]におけるロシアと言う二つの敵を独力で抑える事は難しくなり、長い間保持してきた「[[栄光ある孤立]]」を放棄し、[[1902年]]に[[日本]]と[[日英同盟]]を、[[1904年]]に長年の宿敵・フランスと[[英仏協商]]を結んで、それぞれロシアとドイツの伸張を食い止めようとした。
 
更に[[日露戦争]]におけるロシアの敗戦により、東アジアにおけるロシアの伸張が抑えられた今ならばロシアとの利害の調整が可能になると考え、[[1907年]]に[[英露協商]]を結んだ。この露仏同盟・英露協商・英仏協商によって作れる三国の協調関係を指して'''三国協商'''と呼ばれる。