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== 歴史 ==
エディルネは[[ローマ帝国]]が[[トラキア]]支配の要とした古代都市'''ハドリアノポリス'''(アドリアノープル、''英:Adrianople'')の後身であり、[[トルコ語]]名のエディルネはハドリアノポリスがトルコ語化したエドレネボルの転訛である。[[14世紀]]に[[オスマン帝国]]の統治下に入って以降は[[ルメリ|ルメリ州]]の州都となり、また[[ブルサ]]に次ぐ第二の宮廷が置かれて[[コンスタンティノポリス|コンスタンティノープル]]([[イスタンブル]])が征服されるまで100年にわたり帝国の実質上の[[首都]]であった。[[15世紀]]にイスタンブルが正式の首都となった後もオスマン帝国の副都として宮廷が置かれ、帝国の[[バルカン半島]]支配の重要な拠点であり続けたが、近代にギリシャ、ブルガリアが相次いで独立、オスマン帝国も消滅したために国境地帯の地方都市に過ぎなくなった。
 
=== オスマン帝国以前 ===
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エディルネはオスマン帝国にとってもバルカン征服の前進拠点である[[ソフィア (ブルガリア)|ソフィア]]や[[ベオグラード]]に繋がる幹線道路の通り道であったことから政治的・経済的・軍事的に重要視され、ムラト1世は征服からまもなく[[1365年]]にこの町に宮殿を築いて帝国の首都とした。オスマン帝国は旧来の手狭な市壁を越えて市街地を拡張し、[[モスク]]や[[キャラバンサライ]]などイスラム都市としての[[インフラストラクチャー|インフラ]]整備を行って[[ムスリム]](イスラム教徒)の移住を促進した。その結果、オスマン帝国下のエディルネでは旧来の主要な住民である[[ブルガリア人]]に加えてトルコ人人口が増加し、数多くのモスクが建設されるようになる。
 
[[1453年]]に[[メフメト2世]]がコンスタンティノープル(イスタンブル)を征服し、首都を移した後もエディルネには宮殿が残され、帝国のバルカン地方における副都として位置付けられた。国家によるインフラ整備も盛んに進められ、[[16世紀]]には[[スレイマン1世]]やその子の[[セリム2世]]によって宮殿や壮麗なモスク、橋など現存する多くの公共建設物が築かれた。
 
メフメト2世からスレイマン1世の時代にエディルネの郊外に造営された宮殿は、森と草原と川に囲まれた自然豊かな場所にあったことから歴代の[[オスマン帝国の君主]]に愛され、イスタンブルへの遷都後も[[18世紀]]頃までたびたび君主が滞在した。[[17世紀]]頃までは君主の所在する場所に政府機能が随行してきたため、国家の政治的な決定や祝祭・儀礼が行われる政治都市でもあった。
 
=== 近代のエディルネ ===
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エディルネにはローマ帝国時代の遺跡はほとんど残っていない。わずかに市街に埋もれて東ローマ時代の城壁のごく一部と、「マケドニア人の塔」と呼ばれる物見塔が残っているだけである。
 
オスマン帝国時代の建造物の中でもっとも有名なものは、町の中央部の丘の頂上にある[[セリミエ・モスク]]である。[[1569年]]から[[1575年]]まで足かけ7年をかけて建設されたこのモスクは、イスタンブルの[[アヤソフィア]]を越える直径31.5mの大ドームを持ち、大建築家[[ミマール・スィナン]]の最高傑作として名高い。そのほか、市街中央部の大建造物には、高さ68mの[[ミナレット]]をもつ[[ユチュ・シェレフェリ・モスク]]や、[[1414年]]建造のエディルネ現存最古の[[エスキ・モスク]]、メフメト2世の父[[ムラト2世]]の建設した[[ムラディエ・モスク]]など、この町がオスマン帝国の首都であった時代に築かれたさまざまなモスクがある。
 
オスマン帝国の人々は狭苦しい市街に留まらず郊外地区に宮殿や別荘を盛んに造営した。[[エディルネ宮殿]]は市街の西を流れるトゥンジャ川の西岸に造営され、イスタンブルの[[トプカプ宮殿]]に次ぐ壮麗な規模を誇ったが、度重なる戦乱で破壊され現在では一本の塔と若干の廃墟が残るのみの、牧草地となっている。エディルネ宮殿跡の東を流れるトゥンジャ川の中洲はクルクプナルの野と呼ばれ、オスマン帝国時代以来、トルコの伝統[[格闘技]]である[[ヤールギュレシ]](オイルレスリング)の会場となっている。
 
同じくトゥンジャ川の西岸には、メフメト2世の子[[バヤズィト2世]]が作ったモスク複合施設がある。オスマン帝国はこれら川向こうの施設と市街地をつなぐために多くの現存する石造りの橋がつくったが、なかでも町の南の[[カラアガチ]]地区や[[ギリシャ]]国境検問所との間を結ぶ、メリチ川にかかるメリチ橋はミマール・スィナンの作品として有名である。また、カラアガチ地区には、[[オリエント急行]]開業当時にオスマン帝国側国境駅として開設された[[カラアーチ駅]]の旧駅舎がトラキア大学の一部として残存している。
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{{Commonscat|Edirne}}
* [http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/zatsu/taigan.html#07 世界飛び地領土研究会-エディルネ]
* [http://www.ne.jp/asahi/arc/ind/2_meisaku/44_selimiye/selimiye.htm イスタンブルのスレイマニエと、エディルネのセリミエ (モスク)]
 
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