「陰陽師」の版間の差分
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[[ファイル:Tamamonomae_Onmyoji.jpg|right|thumb|300px|[[江戸時代]]初期の奈良絵本『たまものまへ』より、[[算木]]で占いを行う陰陽師の画。[[京都大学]]附属図書館所蔵。]]
'''陰陽師'''(おんみょうじ、おんようじ)は、古代[[日本]]の[[律令制]]下において[[中務省]]の[[陰陽寮]]に属した[[官職]]の1つで、[[陰陽五行思想]]に基づいた[[陰陽道]]によって[[筮竹|占筮]](せんぜい)及び[[地相]]などを職掌とする[[方技]](技術系の[[官人]]。[[技官]])として配置された者を指すが、それら官人が後には本来の律令規定を超えて[[占術]]
なお、本来は「おんようじ」と訓んだが現代は専ら「おんみょうじ」と訓まれ、これは「おんようじ」が[[連声|連声化]]して「おんみょうじ」となった(「[[:wikt:en:陰|陰]]」は[[中古音|中国語中古音]]で「*ʔi̯ə'''m'''」、[[中世日本語]]音で「*wo'''m'''」なので、連声化すると[[ま行]]の音になる)ものとされ、また「'''お'''んみょうじ」と先頭を強調する発音が定着しているが、かつては「お'''ん'''みやうぢ」と2音目に[[揚音]]があったと言われている{{要出典|date=2011年9月}}。
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その後、[[天武天皇]]が[[壬申の乱]]の際に自ら[[式盤|栻]](ちょく、占いの道具)を取って占うほど天文(学)や[[遁甲]]の達人であり陰陽五行思想にも造詣の深かった事もあり、同天皇4年([[676年]])に陰陽寮や日本初の[[占星台]]を設け、同13年(685年)には「陰陽師」という用語が使い始められるなどしてから陰陽五行思想は更に盛んとなり、[[養老]]2年([[718年]])の[[養老律令]]において、中務省の[[内局]]である[[寮 (律令制)|小寮]]としての陰陽寮が設置されたが、そこに方技として[[天文博士]]・[[陰陽博士]]・[[陰陽師 (律令制)|陰陽師]]・[[暦博士]]・[[漏刻博士]]が常置されることも規定されると、陰陽寮は[[神祇官]]に属する[[卜部氏|卜部]]の[[亀卜]](きぼく、[[亀甲]]占い)と並んで公的に[[式占]]を司ることとなった。
陰陽寮は[[四等官制]]が敷かれ、[[陰陽頭]](おんみょうのかみ)以下の[[事務官|事務方]]である[[行政官]]と、
陰陽寮成立当初の方技は、純粋に占筮、地相(現在で言う「[[風水]]」的なもの)、[[天体観測]]、[[占星術|占星]]、暦(官暦)の作成、[[吉日]][[凶日]]の判断、[[漏刻]]([[水時計]]による時刻の管理)のみを職掌としていたため、もっぱら天文観測・暦時の管理・事の吉凶を陰陽五行に基づく理論的な分析によって[[予言]]するだけであって、神祇官や僧侶のような[[宗教]]的な[[儀礼]](祭儀)や呪術は
陰陽寮に配置されていた方技のうち、占筮・地相の専門職であった陰陽師を「狭義の陰陽師」、天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士を含めた全ての方技を「広義の陰陽師」と定義付けることができる。また、これ以降、この広義の陰陽師集団のことを指して「陰陽道」と呼ぶこともあった。
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