「アブデュルレシト・イブラヒム」の版間の差分

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[[日露戦争]]や[[1905年]]の[[ロシア第一革命]]によりロシア政府が弱体化したのを機に、イブラヒムはロシアに戻り、ムスリム民族運動のために首都[[ペテルブルク]]にて[[タタール語]]紙『ウルフェト ''{{lang|tr|Ülfet}}''』の刊行を行い、ロシアの[[ムスリム]]住民の政治参加の必要性を訴えた。また、[[アリー・メルダン・トプチュバシュ]]や[[イスマイル・ガスプリンスキー]]らと共に、[[ロシア・ムスリム連盟]]の設立の際にも中心的役割を果たした。しかし、[[1906年]]に[[ストルイピン]]政権が、非ロシア人の政治活動への取り締まりを強めると、イブラヒムも国外への脱出を余儀なくされるようになる。
 
[[1907年]]末に、イブラヒムは[[中央アジア]]の[[ブハラ]]、[[サマルカンド]]、[[セミレチエ]]を旅行し、さらに、[[1908年]]から[[1910年]]にかけて、[[シベリア]]、[[モンゴル]]、[[満州]]、[[日本]]、[[韓国]]、[[中国]]、[[シンガポール]]、[[インドネシア]]、[[インド]]、[[ヒジャーズ]]を巡る大旅行を行った。この旅行の内容は、イスタンブルや[[カザン]]の雑誌にも掲載された他、イブラヒムの著作『イスラーム世界 ''{{lang|tr|Âlem-i İslâm}}''』(1巻:[[1910年]]刊行、2巻[[1913年]]刊行)にて紹介された。中でも約半年間滞在した日本での見聞は特に詳細に記述されており、日本に対して一貫して肯定的な評価を与えた。これはその後のイスラーム世界での日本観に大きな影響を与えたといわれる。
 
イブラヒムは、この旅行の後、終着地のイスタンブルに活動の拠点を移した。[[第二次立憲制]]期のオスマン帝国で、イブラヒムは『スラト・ミュスタキム ''{{lang|tr|Sırat-ı Müstakim}}''』などの雑誌に[[汎イスラーム主義]]的な論説を投稿し、同誌主筆の[[メフメト・アーキフ]]や、[[サイード・ヌールスィー]]らと親交を持った。[[1912年]]にはオスマン国籍を取得し、[[イタリア・トルコ戦争]]や[[バルカン戦争]]にも従軍。[[第一次世界大戦]]中には、ヨーロッパにて反ロシア宣伝活動に従事し、[[ベルリン]]では、ドイツ軍の捕虜となったロシア兵の中からムスリムを募集して「アジア大隊」を編成する任務に当たった。イブラヒムが組織したアジア大隊は、オスマン帝国に派遣され、メソポタミア戦線にてイギリス軍と戦った。
 
[[1917年]]の[[ロシア革命]]によりロシアで帝政が打倒されると、イブラヒムはロシアへ帰国した。当初イブラヒムは、[[ソビエト連邦|ソビエト政権]]との連携を図ったが、後にこれをあきらめ、[[トルコ]]の[[コンヤ]]に移った。共和政下のトルコでは冷遇されたが、[[1933年]]に日本から招聘を受けて、再び日本を訪れた。日本では、[[東京ジャーミイ]]の初代イマームを務めるなど、イスラームの普及に尽力した。[[1944年]][[8月17日]]に東京にて死去。その死は日本のラジオでも放送された。イブラヒムの墓は、現在でも[[多磨霊園]]の外国人墓地にある。