「ピョートル・バドマエフ」の版間の差分

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外務省アジア局では[[グレート・ゲーム]]におけるロシア外交に関与し、諜報員の身許を偽装するため[[チタ]]に商社を設立した<ref name="autogenerated1999">Baabar, 1999, ''From World Power to Soviet Satellite: History of Mongolia'' edited by C. Kaplonski. University of Cambridge. P. 116.</ref><ref>Saxer, Martin, 2004, ''[http://anyma.ch/journeys/doc/thesis.pdf Journeys with Tibetan Medicine: How Tibetan Medicine Came to the West. The Story of the Badmayev Family.]'' M.A. thesis in Social and Cultural Anthropology, University of Zurich. Retrieved 2012.03.27. Pp. 32-34.</ref>。この商社では1895年にモンゴル初の民間新聞を発行した他、競走馬の品種改良を行い、1909年には金鉱山の採掘を目的とした商社を新たに設立している。
 
[[極東]]はアレクサンドル3世が[[シベリア鉄道]]を敷設したことにより急速に開発が進み、バドマエフは鉄道を南へしてチベットにも繋げることを計画し、「[[蘭州]]、チベット、モンゴルを鉄道で繋ぐことで、中国の経済はロシアの手中に落ちます。これにヨーロッパ勢力は対抗出来ません」と提案している。大蔵大臣の[[セルゲイ・ヴィッテ]]はバドマエフの提案に興味を持ち、アレクサンドル3世に対して「ロシアの国益の観点から見て、バドマエフの提案は非常に重要な政治的意義を持ちます」と報告しているが、この提案実現することはなかった。
 
また、[[イギリス]]に占領されることを危惧し、その前に中国、モンゴル、チベットを併合するべきと熱心に主張し、1893年に計画実現のために[[モンゴル人]]を武装させて尖兵に利用することをアレクサンドル3世に書面で提案していた<ref name="autogenerated1999"/>。バドマエフは「中国は専制支配の国のため、立憲君主国家のイギリスよりも専制君主国家のロシアに支配されることを容易に受け入れる」と主張していた。アレクサンドル3世は「提案は素晴らしいものだが、成功の可能性を信じることは難しい」と返答して受け入れなかったが、バドマエフはその後も独自に計画を進めモンゴル、チベットを相次いで訪れた他、ニコライ2世の側近である{{仮リンク|エスペル・ウフトムスキー|en|Esper Ukhtomsky}}に計画実現を訴えている<ref>Baabar, 1999, ''From World Power to Soviet Satellite: History of Mongolia'' edited by C. Kaplonski. University of Cambridge. P. 118.</ref>。しかし、ニコライ2世も父帝と同様にバドマエフの計画を「幻想的」と一蹴して相手にしなかった<ref name="russianow"/>。
 
1904年1月1日に「ロシアはチベットに関して有効な政策を出していません。イギリスはチベットを狙っていますが、ロシアの人々は誰もイギリスの真の恐ろしさを理解していません」とニコライ2世に書簡を送っている。2日後、バドマエフはニコライ2世の個人的な依頼を受けチベットに向かった。ニコライ2世の依頼は「チベットの現状調査とチベット人の反英感情の醸成」というものだったが、[[日露戦争]]の勃発により工作の遂行を断念している。1911年から1916年にかけて、モンゴルへの鉄道計画に参加した。
 
=== 死去 ===