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[[画像:Rt Hon John Methuen as Lord Chancellor of Ireland - by Adrien Carpentiers.png|right|right|thumb|250px|条約の調印に大きな役割を果たしたジョン・メシュエンの肖像画]]
{{出典の明記|date=2015年12月}}
'''メシュエン条約'''({{Lang-en|英語: Methuen Treaty}}{{Lang-pt|ポルトガル語: Tratado de Methuen}})Methuen)とは、[[1703年]]に[[グレートブリテン王国|イギリス]]と[[ポルトガル王国|ポルトガル]]の間で締結された通商条約である調印協定の内容[[リスボン]]3条構成された。'''メシュエン通商条約'''とも称すてい<ref name="kinshichi2003">金七『ポルトガル史』増補版、134-137頁</ref>
 
イギリスの経済学者[[デヴィッド・リカード]]は[[比較優位|比較生産費説]]の実例としてメシュエン条約を引用している<ref name="kinshichi2003"/>。
== 概要 ==
[[1580年]]から[[1640年]]にかけて、ポルトガルは[[スペイン帝国|スペイン]]に併合されていた。[[ポルトガル王政復古戦争|独立戦争]]を経て再び独立を取り戻すが、その際に国土が荒廃してしまった。その地に[[ぶどう]]や[[オリーヴ]]を生産したため、ポルトガルでは17世紀後半より[[ワイン]]の生産量が増加していた。その最大の取引先がイギリスであり、対英関係が重視されることになった。こうした中、1703年、イギリス大使の[[ジョン・メシュエン]]とポルトガルの[[アレグレテ侯]]の間で結ばれた通商条約が'''メシュエン条約'''である。
 
== 調印の経緯 ==
この条約によって、ポルトガルは従来の[[保護貿易]]政策を転換させた。すなわち、ポルトガルはイギリス産[[毛織物]]の輸入を受け入れることになった。その代償として、イギリスは[[フランス王国|フランス]]産ワインより低い税率でポルトガル産ワインを購入することになった。
メシュエン条約は[[1353年]]に[[ポルト]]と[[ロンドン]]の間で締結された通商条約、[[1373年]]に[[ポルトガル王国]]と[[イングランド王国]]の間で結ばれた条約、
[[1386年]]に締結された[[ウィンザー条約]]の流れに連なる対外条約に位置付けられている<ref name="bar">バーミンガム『ポルトガルの歴史』、91-94頁</ref>。
1703年5月16日に[[リスボン]]駐在のイギリス大使[[ジョン・メシュエン]]の主導でイギリス・ポルトガル間で軍事条約が締結され、イギリスはフランスとスペインの包囲を潜り抜けてヨーロッパ大陸への経路を確保する<ref name="bar"/>。
 
1703年12月27日<ref name="bar"/>、イギリス・ポルトガル間で[[ワイン]]、毛織物の輸出入に関する通商条約が調印された。
メシュエン条約の締結後、ポルトガルのワイン輸出は増大した。しかし、イギリスからの毛織物の流入はそれ以上であり、ポルトガル自国の毛織物産業は壊滅的な打撃を受けた。こうして、徐々にポルトガルはイギリス経済の従属下におかれることになった。17世紀末にポルトガルの{{仮リンク|ブラジル植民地|en|Colonial Brazil}}で金鉱が発見され[[ゴールド・ラッシュ]]が発生したが、その利潤もほとんどがイギリスに流出した。また、ポルトガルを通じてイギリスはブラジル植民地へも市場拡大を果たすことになった。こうして、[[ポルトガル海上帝国]]は、[[イギリス帝国]]の傘下へと組み込まれることとなった。
条約の調印においてはイギリス側からジョン・メシュエンが、ポルトガル側からはブドウ栽培を経営する地主貴族のカダヴァル公爵とアレグレッテ公爵が参加した<ref name="kinshichi2003"/>。
条約によってポルトガルはイギリスの毛織物の輸入を承認し、イギリスはポルトガル産のワインにフランス産のワインよりも3分の1安い関税をかけることが取り決められた
<ref name="kinchichi2011">金七『図説 ポルトガルの歴史』、78頁</ref><ref>合田「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』、401頁</ref>。
 
[[1810年]]のフランス軍とウェリントン軍のポルトガル侵攻によって条約は失効するが、その後もイギリスとポルトガルの友好関係は継続する<ref name="bar"/>。
==関連項目==
*[[比較優位]] - 経済学者[[デヴィッド・リカード]]が提唱。
 
== 概要結果 ==
従来はメシュエン条約はポルトガルの工業化を遅らせた原因と受け止められていた<ref name="kinchichi2011"/>。
ポルトガルでは禁輸の対象となっているイギリス産の毛織物が密輸されており、イギリスの船主は毛織物を積み下ろした船舶にポルトガル産のワインを積み込んで利益を得ており、
メシュエン条約はこの現状を追認する意図があったと推定されている<ref name="kinshichi2003"/>。
メシュエン条約はエリセイラ伯がポルトガル経済の危機の克服を目指して実施した工業化政策の妨げとなったが、ポルトガルの[[]]への影響はブラジルから大量に流入した[[金]]の影響のほうがより強いと
考えられている<ref name="kinshichi2003"/>。
 
ポルトガルは輸出の安定によって輸出入のバランスを調整することが可能になり、地主たちはワインの生産に専念することができた<ref name="bar"/>。
条約の締結によってポルトガルはワイン輸出国の地位を確立し<ref name="horupu">マルケス『ポルトガル』2、95頁</ref>、1720年代以降[[ポートワイン]]をはじめとするワインの生産量が急激に増加する<ref name="kinshichi2003"/>。
ワイン交易産業の成長は18世紀末まで続いた<ref name="horupu"/>。
また、イギリス産の毛織物の輸入が認められた後も、ポルトガルの民衆は安価な国産の繊維製品を愛用し続けた<ref name="kinshichi2003"/>。
 
イギリスの経済学者[[アダム・スミス]]はポルトガル側に一方的に有利な協定だと批判したが、
ポルトガルがオランダ、フランスの繊維製品の輸入を解禁した後も、それらの国の製品に比べて安価なイギリス製品はポルトガルの市場でなお優位に立っていた<ref name="kinshichi2003"/>。
さらにイギリスはポルトガルの市場に足がかりを得ただけでなく、ポルトガル本国を通して大西洋のポルトガル植民地にも販路を拡大することに成功した<ref name="bar"/>。
 
== 脚注 ==
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== 参考文献 ==
* 金七紀男『ポルトガル史』増補版(彩流社、2003年4月)
* 金七紀男『図説 ポルトガルの歴史』(ふくろうの本, 河出書房新社, 2011年5月)
* 合田昌史「海洋帝国の時代」『スペイン・ポルトガル史』収録(立石博高編、新版世界各国史、山川出版社、2000年6月)
* デビッド・バーミンガム『ポルトガルの歴史』(ケンブリッジ版世界各国史, 創土社, 2002年4月)
* A.H.デ・オリヴェイラ・マルケス『ポルトガル』2(金七紀男訳、世界の教科書=歴史、ほるぷ出版、1981年11月)
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