「栽弘義」の版間の差分

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豊見城、沖縄水産を率いて[[阪神甲子園球場|甲子園]]大会には春夏合わせて17回出場(+部長として1回)。
 
[[第73回全国高等学校野球選手権大会|1991年夏の甲子園]]大会で、当時3年生エースだった[[大野倫]]への常軌を逸脱した[[大野倫#第73回全国高校野球選手権決勝戦|酷使の起用]](右肘の骨折を知りながらも無理矢理投球を命令)は、各所から批判を浴びた(夏の大会前に控え投手が病気で投げられなくなったため投手のできる選手が大野一人になった状況ではあった{{要出典|範囲=が、試合前の記者会見で「大野には死ぬつもりでやってもらいます。かわいそうだが、野球生活が終わるつもりで。やる時にはやらにゃあ・・・」との栽弘義による発言があり、それを受けて投球した大野投手は骨折したままの状態で773球を投げ抜いた結果、現在もPTSDに苦しんでいる|date=2016年10月}})。また当時、「[[アッコにおまかせ!]]」の中継が沖縄で行われたが、島民が野球中継に釘付けで中継場所に殆ど人が集まらないという珍事があった。
 
[[2002年]]に保健体育教諭を務めていた沖縄水産を定年退職したが、部長としての2勝を含めて甲子園通算29勝だった栽は、節目のあと1勝にこだわり、その後も監督を続けた{{sfn|沖縄を変えた男|p=340}}。