「メゾン=ラフィット」の版間の差分

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|alt maxi=57 m
|hectares=
|km²km2=6.75
|sans=22,566
|date-sans=[[2006年]]
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メゾンの封土はニヴァール・ド・セトゥイユの子孫に受け継がれ、その後2人の姪とゴークール家のジャン2世の手に落ちた。1602年、ジャン8世・ド・ロングイユが分割されていたメゾン荘園を統一した。1629年に後継者となったルネ・ド・ロングイユはパリ[[高等法院 (フランス)|高等法院]]の長であり、[[フランソワ・マンサール]]に命じて城を建てさせた。
 
1759年に聖職者シャリーヌが人口を数えたとき、822人であった。内訳は、耕作地の約40%40%占めるブドウ栽培農家であった。
 
ロングイユ家の末裔が城と土地を手放した後、主となったのはアルトワ伯(のちの[[シャルル10世 (フランス王)|シャルル10世]])であった。彼が[[フランス革命]]で海外へ逃亡した後、変遷を経て1804年に[[ジャン・ランヌ]]将軍が新たな領主となった。しかし将軍の死後、未亡人はメゾン領を銀行家[[ジャック・ラフィット (1767-1844)|ジャック・ラフィット]]へ売却した。1830年から1831年まで[[フランスの首相]]を務めたラフィットは、退陣後に不動産取引のためメゾンの領地を分割することに決めた。1833年、厩舎やその付属建築物が、ル・パルク地区(Le parc)で大勢のバイヤーに建築材料を提供するため壊された。彼は新たな通りや広場を設置し、既存の通りを軸として幾何学的設計がなされた。ラフィットは新しい広場や通りに、[[フランス第一帝政]]にちなんだ名を付けていった(ナポレオン広場など)。1838年には100戸が既に建っていたが、さながら『メゾン=ラフィットの素晴しい眺め』という広告を集めた版画のアルバムのようだった。これら多くの建物は中流階級が社会的理想とする、小さな建物であった。この新たな住宅地は鉄道の到来に助けられ、より住宅が増え富裕層が移ってくるようになった。
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[[メゾンラフィット競馬場|メゾン=ラフィット競馬場]]があるため、コミューンは別名『馬のまち』(cité du cheval)という。
 
メゾン=ラフィットのル・パルク地区は、コミューン面積の60%60%を占め、メゾン=ラフィット住民の約40%40%が暮らしている。
 
==姉妹都市==