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=== 草加宿の盛衰 ===
草加宿の開宿当時、戸数は84戸、長さ685間、伝馬人足25人、駅馬25頭であり、旅籠屋も5軒から6軒、店舗は豆腐屋、塩・油屋、湯屋、髪結床、団子屋、餅屋が各1軒ずつ軒を並べたもので、あとは農家であったが徐々に人口が増え、元禄期には戸数120軒になった。
[[正徳 (日本)|正徳]]3年([[1713年]])には、草加宿総鎮守として市神([[神明 (草加市)|神明宮]])が建てられ、五・十の[[六斎市]]が開かれるようになり、近郷商圏の中心として繁栄するようになった。このころから、大半が店子と地借層で、他に屋守、分地、脇屋敷と都合5000人前後で構成され<ref>[[正徳 (日本)|正徳]]4年([[1714年]])『草加町組五人組一札』に拠る。</ref>、[[享保]]年間([[1716年]]-[[1736年]])に発展し、1728(享保13)年には伝馬人足50人、駅馬50頭となったという。
 
草加宿は、[[享保]]年間([[1716年]]-[[1736年]])から発達し、[[天保]]14年([[1843年]])によると、南北12町(約1.3km)の規模となり、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠67軒(大2、中30、小35)、人口3,619人であった<ref>[[天保]]14年『日光道中宿村大概帳』に拠る。</ref>。これは、同じ日光道中の宿場のうち、城下町に併設されていた[[宇都宮宿]]と[[古河宿]]を除けば、[[千住宿]]、[[越ヶ谷宿]]、[[幸手宿]]に次ぐ規模であった。