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[[大正時代]]から[[昭和]]10年代にかけて、[[東京]]を中心に流行した軽食である。作り方は現在の[[広島風お好み焼き]]や同時期の西日本で流行した[[一銭洋食]]と同じ「のせ焼き」が基本で、多様なスタイルの鉄板焼きが路上の屋台において提供された<ref>{{Cite book |和書 |author=池波正太郎 |year=1973 |title=食卓の情景 |page= |publisher=[[朝日新聞社]] |location= |asin=B000J97A6O |quote= }}</ref>。
 
どんどん焼きは[[もんじゃ焼き]]が変化したものである<ref name=nisshin>[http://www.nisshin.com/entertainment/komugiko_club//map/tohoku.html どんどん焼き]([[日清製粉]])</ref>という説があるが、もんじゃ焼きや後の[[お好み焼き]]のように生地に具材を混ぜ込んで焼くスタイルは、「牛てん」と呼ばれるメニュー一種類を除き記録に残っていない。またもんじゃ焼きやお好み焼きが「客が自分で焼く」遊戯料理として誕生したのに対し、どんどん焼きは店員が焼いて販売する品であり、提供方式も根本的に異なる。
 
名称は、同商品を売る[[屋台]]が「どんどん」と[[太鼓]]を鳴らしていたことから、あるいは、作るそばから「どんどん」売れたことから名付けられたとともいわれる<ref name=seifun>[http://www.seifun.or.jp/wadai/hukei/huukei-09_06.html 『お好み焼き』の仲間・関東編]([[財団法人]][[製粉振興会]])</ref>。また、[[たいめいけん]]の[[茂出木雅章]]は「焼く際に上から木ベラでドンドン叩くから」と主張しており<ref>{{Cite book |和書 |author=佐藤隆介 |year=1993 |title=池波正太郎の食卓 |page= |publisher=[[新潮社]] |location= |isbn=4104453013 |quote= }}</ref>、当時を知るものの間でも意見が別れ定説はない。
 
大きさは現在のお好み焼きなどと比べるとかなり小さく、子供が小腹を満たす程度の大きさが主流であったようである。[[池田彌三郎]]の著作に「大きさで値段の違いがあって、牛てんの十銭のなどになると、真径十センチはあって、たっぷりしていた<ref>{{Cite book |和書 |author=池田弥三郎 |year=1965 |title=私の食物誌 |page= |publisher=[[河出書房新社]] |location= |asin=B000JADHQA |quote= }}</ref>」と記載されていることから考えて、通常のものはせいぜい手のひらサイズで、一口か二口で食べられる程度のものであったと思われる。
 
[[1931年]]([[昭和]]6年)頃、[[東京]]の屋台や[[縁日]]で「どんどん焼き」が評判になった<ref name=seifun/>。その後、昭和前期頃までは東京・[[下町]]界隈などでもよく見られた。作家・[[池波正太郎]]は少年時代に東京[[浅草]]在住で、どんどん焼きを実際に多く食べ、その思い出や商品内容を多くの著作に書いている。それら著作によると、当時の商品内容は現在のお好み焼きに近い物の他、[[食パン]]を三角形に切ったものへ卵を入れて溶いた小麦粉を塗って焼き[[ウスターソース]]をかけた「パンカツ」、溶いた小麦粉を小判形にのばした上に牛・豚の生肉薄切りをのせて再度小麦粉を振り乾かないうちにパン粉をかけて両面を焼いた「カツレツ」、溶いた小麦粉を細長く伸ばして豆餅と[[餡]]をのせて巻き込んで焼き黒蜜をかける「おしる粉」など、今では余り見られなくなったメニューも多く存在した。子供のオヤツとしてだけでなく、酒の肴や惣菜として大人も買っていく事が多かったとの事である。また必ずしも小麦粉を用いたというわけでなく、[[キャベツ]]や[[ジャガイモ]]を炒めたものや[[焼きそば]]等も販売しており、どんどん焼きとは鉄板焼き料理全般を指す言葉でもあったようである。池波は自身で店番を買って出たりオリジナルメニューを考案するなど入れあげ、「将来どんどん焼き屋になろう」と本気で考えたが、周囲の反対で実現しなかった。