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== 概要 ==
[[明治|明治時代]]に、『[[古事類苑]]』『[[故実叢書]]』『[[本居宣長全集]]』『[[和漢三才図会]]』『[[賀茂真淵全集]]』『[[国書刊行会本]]』『[[大日本史]]』『[[国史大辞典 (明治時代)|国史大辞典(明治版)]]』等を出版、大正時代に『[[水戸藩史料]]』、昭和戦前期に『[[日本随筆大成]]』『[[新訂増補国史大系]]』等、多数の史料集・辞典類を刊行し日本史学の発展に寄与している。
 
戦後には、古代史から近現代史までの多数の研究書に加え、[[文化史]]、[[美術史]]、[[考古学]]、[[民俗学]]、[[宗教史]]、[[国語]]・[[国文学]]等の書籍を出版しており、日本史関連の大半の学者が著書・編著を刊行している。
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明治3年([[1870年]])[[東京府]]京橋南伝馬町(現在の[[中央区 (東京都)|中央区]][[京橋 (東京都中央区)|京橋]]一丁目)の表通りに新店舗(吉川書房)を開く。扱った書物は、新時代の要望に応え、和漢書のほか、[[福沢諭吉]]・[[中村正直]]等の西洋文化の翻訳類も数多く取り揃え、とくに上方版の常備販売は他店の追随を許さぬものがあった。明治5年([[1872年]])には、吉川書房の階上に「貸本屋」の大革新を試み、有料(1時間半銭)の書物展覧所を設け、広く内外の書籍を集めて公開し「来読貸観所」と称した。[[大槻如電]]は「日本における図書館の濫觴なり」と称賛している(明治9年11月火災により閉鎖する)。明治10年([[1877年]])頃より出版を兼業し、はじめ「文玉圃」「近江屋」等の号も用いたが、多くは「吉川半七」の個人名をもって発行所とした。明治12年([[1879年]])には内閣書記官岡三橋(守節・書家)の推挙により[[宮内省]][[御用書肆]]となり、『萬葉集古義』『幼学綱要』『婦女鑑』等、多数の宮内省蔵版の出版を引き受け、明治20年(1887年)頃より、時代の趨勢を鑑み出版に専業し、もっぱら学術書の刊行に従事する。
 
明治33年([[1900年]])「弘文館」の商号を建て、大部な叢書の発行や、予約出版を行う。明治35年([[1902年]])吉川半七が63歳で死去。二代目吉川半七が明治37年([[1904年]])資本金10万円で[[合資会社]]吉川弘文館を設立する。明治38年([[1905年]])、[[国書刊行会 (1905-1922)|国書刊行会]]の編輯所を吉川弘文館倉庫の二階に置き、この年から発行した刊行会本(国書刊行会叢書)の印刷・配本を引き受け、大正11年([[1922年]])までに全8期、57部、260冊を刊行。大正12年([[1923年]])[[関東大震災]]により店舗や資料を全て消失する。昭和4年([[1929年]])『新訂増補国史大系』の刊行を開始する。昭和18年([[1943年]])太平洋戦争中の「出版事業令」により、企業合同を行い一時事業を休止。この年までに国史大系58冊を刊行する。
 
戦時中の休業を経て、昭和24年([[1949年]])[[5月7日]]、吉川圭三ほか3人が出資し、新生「株式会社吉川弘文館」として再発足し、現在に至る。