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=== お好み焼きという名称について ===
「お好み焼き」という名称と提供方式は[[昭和]]の初めに東京で生まれ、それが[[大阪]]に伝わり広まったと考えられてう説がある。
 
お好み焼きの歴史について語られる際に、最も古い文献としてたびたび引用されるのが、[[池田弥三郎]]の「私の食物誌」<ref>{{Cite book |和書 |author=池田弥三郎 |year=1965 |title=私の食物誌 |page= |publisher=[[河出書房新社]] |location= |asin=B000JADHQA |quote= }}</ref>に記載された一節である。本書には「昭和6~7年(1931~1932年)頃に[[銀座]]裏のお好み焼き屋が密会所のようになり、風俗上の取り締まりで挙げられた」というエピソード<ref>「屋台の、子ども相手の、二銭三銭五銭といったどんどん焼きが、出世して、いつしか「お好み焼き」になった。そして銀座の路地の奥などに、ちょっとした店ができた。それは昭和の初年ごろではなかったか。なんでも、銀座裏のお好み焼き屋が、密会所みたいになって、風俗上の取り締まりであげられたということがあったのが、昭和六、七年ごろのことで、当時大学の予科生だったわたしは、そろそろそういうところへ出入りし始める時分だったが、そんなことから、それっきり、行きそびれてしまった。」</ref>が記録されており、当時のお好み焼き屋は飲食を口実として懇ろの男女に密室を提供する、どちらかと言えばいかがわしい業態であったことが読み取れる。食文化史研究家の岡田哲はこの証言を基づく、「お好み焼き」は昭和6~7年頃当時の東京の[[花街]]において、座敷にしつらえた鉄板で客が自分の「好み」に焼く風流な遊戯料理として誕生した<ref>「お好み焼きの事始めは明らかではないが、昭和6~7年頃に、どんどん焼きの調理形態から東京の花柳界で創始されたという説がある。平焼きは、子供から大人へ、屋台からお座敷へと変わり、大人が楽しむ風流遊戯料理になる。そして、客が作って楽しむ、お座敷お好み焼きができる。」 - {{Cite book |和書 |author=岡田哲 |year=1993 |title=コムギ粉の食文化史 |page= |publisher=[[朝倉書店]] |location= |isbn=4254430531 |quote= }}</ref>という解釈を紹介しており、[[日本コナモン協会]]会長の[[熊谷真菜]]も自著にて同じ説を採用している<ref>{{Cite book |和書 |author=熊谷真菜 |year=1993 |title=たこやき |page= |publisher=[[リブロポート]] |location= |isbn=4845708280 |quote= }}</ref>。
 
[[田辺聖子]]は[[藤本義一 (作家)|藤本義一]]との対談の中で、大阪でお好み焼きが知られるようになったのは昭和16~17年ぐらいからではなかったかと発言している<ref>「お好み焼きはかなり新しいけどね。昭和十六、七年くらいからと違いますか。その前は洋食焼きばっかりで」 - {{Cite book |和書 |author= |year=1983 |title=ふるさと日本の味(8) 大阪・神戸味どころ|page= |publisher=[[集英社]] |location= |asin=B000J7HOOY |quote= }}</ref>。
現存するお好み焼き屋の中で最古とされる店は、[[浅草]]の「風流お好み焼 染太郎」で昭和13年(12年という説もあり)の創業であるが、大阪でも同じ時期に「以登屋」(現在は閉店)が開店しており、大阪で初めて客に自由に焼かせる「お好み焼き」を紹介したとされる。以登屋は[[芸者]]や[[花柳界]]の粋人、[[船場 (大阪市)|船場]]の旦那衆などを対象とした高級店で、市中の洋食焼きが10銭程度であった時代に1円50銭もしたという<ref>{{Cite book |和書 |author=三宅正弘 |year=2002 |title=神戸とお好み焼き-まちづくりと比較都市論の視点から |page= |publisher=[[神戸新聞|神戸新聞総合出版センター]] |location= |isbn=4343002055 |quote= }}</ref>。ちなみに大衆店として人気を博した染太郎では、創業当時のお好み焼きの価格は一枚5銭であった<ref>「やきそば。いかてん。えびてん。あんこてん。もちてん。あんこ巻。もやし。あんず巻。よせなべ。牛てん。キャベッボール。シュウマイ。(以上いずれも、下に「五仙」と値段が入っている。それからは値段が上る)。テキ、二十仙。おかやき、十五仙。三原やき、十五仙。やきめし、十仙。カツ、十五仙。オムレツ、十五仙。新橋やき、十五仙。五もくやき、十仙。玉子やき、時価。」 - {{Cite book |和書 |author=[[高見順]]|year=1940 |title=如何なる星の下に |page= |publisher=[[新潮社]] |location= |isbn= |quote= }}</ref>
 
戦後、「お好み焼き」という言葉は客が自分で焼いて楽しむという原義を離れ、ネギではなくキャベツを用いた粉物料理そのものを指すようになる。キャベツを用いる混ぜ焼き式の「お好み焼き」は近畿地方を中心に戦後急速に浸透し、全国各地で洋食焼き・どんどん焼きからお好み焼きへと料理の名称と調理法が更新されていった。焼き方に関しては現在も戦前のスタイルを残す地域が存在するものの、名称の点ではほぼ全国的に「お好み焼き」に統一されている。
 
なお、[[広島]]は戦前の東京で誕生したお座敷料理のお好み焼きはもちろん、戦後の日本で広まった混ぜ焼き式のお好み焼きの影響も受けなかった例外的な地域である。[[原子爆弾|戦災]]からの復興過程で1950年頃に発生した屋台街(後の[[お好み村]])において、戦前の洋食焼きをベースに独自の変化を遂げ、後に[[広島風お好み焼き]]と呼ばれる料理に発展した<ref>[http://web.archive.org/web/20030624043330/http://www.chugoku-np.co.jp/okonomi/mystery/O403010601.html 中国新聞(炎の鉄板)おこのミステリー](2003年6月24日時点の[[インターネット・アーカイブ|アーカイブ]])。</ref>。
 
=== 混ぜ焼きの発祥について ===
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**東京で流行したお好み焼きが、大阪にも伝わる。
*[[1938年]](昭和13年) - [[浅草]]に、現存する最古のお好み焼き店である「風流お好み焼き 染太郎」が開店。
*[[1939年]](昭和14年) - 「染太郎」をモデルとした店の登場する小説が[[文藝|文芸誌]]に連載される。単行本としては翌[[1940年]]に刊行<ref>{{Cite book |和書 |author=[[高見順]]|year=1940 |title=如何なる星の下に |page= |publisher=[[新潮社]] |location= |isbn= |quote= }}</ref>。
*[[1941年|1941]]~[[1942年]](昭和16~17年)ごろ - 大阪でも「お好み焼き屋」が街中で目につくようになる。
*[[1942年|1942]]~[[1945年]](昭和17~20年) - 食料統制のため外食産業が衰退。