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==== ティンパーリ著作 ====
オーストラリア人記者で[[ガーディアン|マンチェスター・ガーディアン]]紙の[[ハロルド・J・ティンパーリ]]は、南京事件の直前9月まで南京に居て、他のジャーナリストの情報などを元に南京事件について[[1938年]]著作「戦争とは何か」を出版した<ref>What War Means: The Japanese Terror in China, London, Victor Gollancz Ltd,1938.New York, Modern Age Books.</ref><ref name=sanktimp/>。この著作は当時イギリス、アメリカ、フランス、コペンハーゲン、中国、日本で刊行され、英米だけで12万冊出版され、日本軍の残虐行為について広く世界に知らしめることとなり、[[南京事件 (1937年)#戦後の軍事裁判における扱い|戦後の戦犯裁判では検察側の主要な証拠として採用された]]<ref name=tanb5-3>田辺敏雄「[http://home.att.ne.jp/blue/gendai-shi/nanking/nanking-jiken-5-3.html 南京虐殺 ( 5-3 )―ティンパーリィ編『 戦争とは何か 』 ―]」</ref>。匿名で書かれた第1章<ref name=sanktimp>[http://www.sankei.com/premium/news/150423/prm1504230008-n1.html 【歴史戦 第10部・終わらぬプロパガンダ(6)】南京事件」広めた本 著者生き地獄豪人記者は中国からカネ貰って執筆した…そんな本が「百人斬り脚色第2章「掠奪裁判をも影響] 産経新聞2015.4.23(池田祥子虐殺岡部伸強姦」河崎真澄第3章「甘き欺瞞と血醒き暴行」田北真樹子第4章「悪魔の所為」までは田中靖人[[マイナー・シール・ベイツ]]と[[ジョージ・アシュモア・フィッチ]]が執筆した原川貴郎、矢板明夫担当)<ref name=tanb5-3/><ref>章題。南京大虐殺記念館長の朱成山、日本語版目次「南京大虐殺をいち早く世界よる。『外国人の見広め軍の暴行』復刻版:竜渓書舎, 1972.」と伝社,価している<ref 1982.<brname=sanktimp/>
 
ティンパーリ著作の内容は、[[コミンテルン]]の支援で日本から帰国した[[郭沫若]]が中国語版の序文を書き<ref name=sanktimp/>、また日本版は[[鹿地亘]]と[[青山和夫]]らが序文を書いた(詳細は[[#日本人工作員]]を参照)<ref name=tanapropa/>。
 
匿名で書かれた第1章「南京の生き地獄」、第2章「掠奪、虐殺、強姦」、第3章「甘き欺瞞と血醒き暴行」、第4章「悪魔の所為」までは、[[マイナー・シール・ベイツ]]と[[ジョージ・アシュモア・フィッチ]]が執筆した<ref name=tanb5-3/><ref>章題は、日本語版目次による。『外国人の見た日本軍の暴行』復刻版:竜渓書舎, 1972.評伝社, 1982.<br>
第1章「南京の生き地獄」(ベイツ、フィッチ)<br>
第2章「掠奪、虐殺、強姦」(ベイツ)<br>
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第4章「悪魔の所為」(ベイツ、フィッチ)<br>
</ref>。ベイツは金陵大学歴史学教授兼安全区国際委員会委員で、国民党顧問であった<ref>“[https://www.newspapers.com/newspage/1368173/ The First Pictures of the Panay Sinking]”, Carroll Daily Herald, Carrol, Iowa, Thursday, December 30, 1937.
東中野修道「南京大学教授ベイツの”化けの皮”」諸君!2002年4月号、p.154, 同『南京「虐殺」研究の最前線』P261。水野『Q&A近現代史の必須知識』PHP研究所 2006, p.64 なお、[http://web.library.yale.edu/divinity/nanking/bates ベイツ・ドキュメント(英語)][[イエール大学]]には手紙、報告、電報等が公開されている</ref><ref name=tanb5-3/><ref name=sanktimp/>。フィッチは[[YMCA]]支部長で、国民党軍[[輜重兵|輜重部隊]]顧問だった<ref>[http://www.nytimes.com/1979/01/23/archives/george-a-fitch-dies-worked-for-ymca-in-china-for-decades.html?_r=0 "George A. Witch Dies; Worked for Y.M.CA. In China for Decades"],''The New York Times'', Jan 23, 1979.</ref>。ティンパリーは当時上海におり、南京で見聞した内容ではなかった<ref name=sanktimp/>。
 
付録には南京安全区国際委員会による「南京暴行報告」 と書簡文」([[外交部 (中華民国)|国民党外交部]]顧問[[徐淑希]]編『南京安全区档案』にも収録)、および「南京の『殺人競争』」として日本の[[百人斬り競争]]記事が収録された<ref name=tanb5-3/>。なお当時[[外交部 (中華民国)|国民党外交部]]長官は[[王寵恵]]であった。ティンパーリは「南京暴行報告」 について日本軍占領当初安全区内2ヶ月の報告を「完全に取り揃えている」と評価し、以下のような暴行案件が掲載された<ref name=tanb5-3/>。
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この報告で殺人事件は50人程度であった<ref name=tanb5-3/>。しかし、ベイツは1万2千人の中国人非戦闘員の殺害を東京裁判で証言しており、この相違は説明がつかないと田辺敏雄は指摘している<ref name=tanb5-3/>。
 
しかし[[鈴木明]]、[[北村稔]]、[[東中野修道]]によって『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』、国民政府国際宣伝処長の[[曽虚白]]自伝などの中国側の資料が発見され<ref>『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』(1941年[[中国第二歴史档案館]]所蔵)、王凌霄『中国国民党新聞政策之研究(1928-1945)』近代中国出版社,1996年、『曽虚白自伝(上集)』聯経出版,1988年,p.200-201.中国社会科学院編集『近代来華外国人名辞典』1981年等。北村稔『「南京事件」の探求』文春新書,p31,43-44.</ref>、これらの資料よりティンパーリは[[蒋介石政権|蒋介石国民党政府]]中央宣伝部顧問に就任しており、国民政府の依頼を受けてイギリスやアメリカで[[プロパガンダ|戦時プロパガンダ]]を行っていたことが判明し、著作の公平性が疑われると主張した<ref>鈴木明『新・南京大虐殺のまぼろし』飛鳥新社,1999年</ref><ref name=kitamso>北村稔『「南京事件」の探求』文春新書2001.Kitamura Minoru,translated by Hal Gold,The Politics of Nanjing,University Press of America.2007.</ref><ref>東中野修道『南京「虐殺」研究の最前線・平成十五年版』p.265-266</ref><ref name=asq>デイヴィッド アスキュー「[http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/609/609PDF/david.pdf 南京アトロシティ研究の国際化 Kitamura Minoru, The Politics of Nanjing: An Impartial Investigationの検証]」立命館文學 609, 557-564, 2008年。</ref><ref name=tanb5-3/>。国民政府国際宣伝処長の曽虚白は以下のように著書で証言している<ref name=tanb5-3/>。
 
『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』(台北国民党党史館蔵)には「本処(国際宣伝処)が編集印刷した対敵宣伝書籍」として、ティンパーリの著作の中国語版名『外人目睹中之日軍暴行』が挙げられている<ref name=sanktimp/>。
{{quotation|ティンパーリーは都合のよいことに、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に、上海の「抗戦委員会」に参加した3人の重要人物のうちの1人であった。・・・そして彼に香港から飛行機で漢口(国民政府)に来てもらい、直接に会って全てを相談した。我々は秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔をだすべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。ティンパーリーは理想的人選であった。かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として2冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した 。(略)このあとティンパーリィはそのとおりにやり、(略)2つの書物は売れ行きのよい書物となり宣伝の目的を達した。|『曾虚白自伝』聯経出版社、1988年<ref name=kitamso/><ref name=tanb5-3/>}}
 
国民政府国際宣伝処長の曽虚白は以下のように著書で証言している<ref name=tanb5-3/>。
「2つの書物」とはティンパーリの本と、スマイス調査のことであった<ref group="注釈">ティンパーリの本が『日軍暴行記実』 (『外人目賭之内日軍暴行』)で、スマイス調査は『南京戦禍写真』であったと田辺はいう。</ref><ref name=tanb5-3/>。また、ティンパーリはベイツへの書簡で「この本はショッキングな本とならなければなりません。もっと学術的取り扱いをすることによって、ある種のバランス感覚もできるでしょうが、ここでは劇的な効果をあげるためにもそれを犠牲にしなければならない」と[[扇情主義|センセーショナル]]に書くと述べていた<ref name=tanb5-3/>。田辺敏雄は、南京在住の米欧人が日本軍に対して悪感情を持ち、中国人に肩入れするのもごく自然のことであっただろうが、それらの記録は中立の立場とはいえないものだったとしている<ref name=tanb5-3/>。
{{quotation|ティンパーリーは都合のよいことに、我々が上海で抗日国際宣伝を展開していた時に、上海の「抗戦委員会」に参加した3人の重要人物のうちの1人であった。・・・そして彼に香港から飛行機で漢口(国民政府)に来てもらい、直接に会って全てを相談した。我々は秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔をだすべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。ティンパーリーは理想的人選であった。かくして我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として2冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した 。(略)このあとティンパーリィはそのとおりにやり、(略)2つの書物は売れ行きのよい書物となり宣伝の目的を達した。|『曾虚白自伝』聯経出版社、1988年<ref name=kitamso/><ref name=tanb5-3/>}}
 
「2つの書物」とはティンパーリの本と、スマイス調査のことであった<ref group="注釈">ティンパーリの本が『日軍暴行記実』 (『外人目賭之内日軍暴行』)で、スマイス調査は『南京戦禍写真』であったと田辺はいう。</ref><ref name=tanb5-3/>。また、ティンパーリはベイツへの書簡で「この本はショッキングな本とならなければなりません。もっと学術的取り扱いをすることによって、ある種のバランス感覚もできるでしょうが、ここでは劇的な効果をあげるためにもそれを犠牲にしなければならない」と[[扇情主義|センセーショナル]]に書くと述べていた<ref name=tanb5-3/>。田辺敏雄は、南京在住の米欧人が日本軍に対して悪感情を持ち、中国人に肩入れするのもごく自然のことであっただろうが、それらの記録は中立の立場とはいえないものだったとしている<ref name=tanb5-3/>。一方、渡辺久志は、曽虚白の証言には問題があり、またティンパーリが国民党中央宣伝部顧問に就任したのも1939年であったといい、[[井上久士]]は「曽虚白自伝」による中国側の依頼でティンパーリが書いたのは誤りとしている<ref name=wat>[[中国帰還者連絡会]]『季刊 中帰連』21号 2002・夏,69-72頁、75頁</ref><ref>[[笠原十九司]]・[[吉田裕 (歴史学者)|吉田裕]]編『現代歴史学と南京事件』柏書房,249頁</ref><ref name=ronsosi>『南京事件論争史—日本人は史実をどう認識してきたか』[[笠原十九司]](2007年)259-264頁</ref>。笠原十九司は、曽虚白の証言は信憑性がなく採用できないとし、また、ティンパーリの本では主要な部分は南京在住者の手記で構成されているので、著作を捏造とすることは論理的に不可能であるし、もし国民政府の意図に沿った取材を彼が行ったとしても、それより前に「戦争とは何か」を著作しているので捏造ではないとする<ref name=ronsosi/>。なお、ティンパーリや[[マイナー・シール・ベイツ|ベイツ]]と親しかった新聞記者[[松本重治]]の記録では両名とも日本への好感を持っていたが、日本軍の行動によって好感が失望に変わったと記されている<ref>[「上海時代(下)」松本重治 中公新書249-251頁、251-253頁</ref>。
 
このほか、南京陥落の翌日に現地にいった外交官[[福田篤泰]]は、「残虐行為の現場は見ていないが、私はあれだけ言われる以上、残念ながら相当あったと思う。しかし私の体験からすれば、本に書いてあるものはずいぶん誇張されている」と述べ、T・J・ティンパレー『中国における日本軍の残虐行為』(1938年)の原資料には、フィッチ神父が現場検証もせずに中国人の訴えを記録したものもあるという<ref name=hukuda>「一億人の昭和史 日本の戦史 日中戦争1」毎日新聞社 261頁</ref>。また中国軍の抵抗は激しく、急な進撃で日本軍は食糧が不足し、これが略奪の一因とした。 安全地区の難民に便衣兵が交じっていたことも事実であるとする<ref name=hukuda/><ref group="注釈">新聞報道によれば、当時の日本の報道官は「1,500人の中国兵が難民区に保護を求め、そこで武器が発見された」と語っている。[https://news.google.com/newspapers?nid=336&dat=19380121&id=4EE0AAAAIBAJ&sjid=zlgEAAAAIBAJ&pg=5534,2271489 "Japan Seizes Control Of International Relief Body"] ''The Deseret News'', January 21, 1938. 同旨''The New York Times'', January 22, 1938.</ref>。また、ティンパリー著作では日本の飛行機が「日機」と表記されるなど中国語寄りの表記があることから、日本留学経験のある中国人が執筆に協力しているのではないかと田中秀雄は指摘している<ref name=tanapropa/>。
 
[[File:Dong Xianguang2.jpg|180px|サムネイル|国民党中央宣伝部副部長の[[董顕光]]。英文月刊紙『戦時中国』を刊行した。]]
また、ティンパリー著作では日本の飛行機が「日機」と表記されるなど中国語寄りの表記があることから、日本留学経験のある中国人が執筆に協力しているのではないかと田中秀雄は指摘している<ref name=tanapropa/>。
他方、アメリカ海軍情報将校、南京・漢口アメリカ大使館[[駐在武官|海軍武官]]、[[アメリカ合衆国海軍長官|アメリカ海軍長官]]特使として蒋介石と親しかったジェームズ・M・マクヒューの史料<ref>James Marshall McHugh マクヒューは[[アメリカ海軍]]第4海兵隊連隊・アジア艦隊情報(intelligence officer for the 4th Marines and U.S. Asiatic Fleet)として1933年から1935年まで上海に駐在、[[駐在武官|海軍武官]]として南京・漢口・重慶のアメリカ大使館に勤務、1940年から1943年まで[[フランク・ノックス]][[アメリカ合衆国海軍長官|アメリカ海軍長官]]特使として蒋介石政権へ派遣された。以上マクヒューの経歴はコーネル大学図書館稀少原稿コレクションHPより。 マクヒュードキュメント:コーネル大学図書館稀少原稿コレクション Division of Rare and Manuscript Collections Cornell University Library,Collection Number: 2770.[http://rmc.library.cornell.edu/EAD/htmldocs/RMM02770.html Guide to the James M. McHugh Papers,1930-1965].
</ref>によれば、ティンパリーは南京陥落以前の[[1937年]]11月に蒋介石夫妻の私的顧問でオーストラリア人記者ウィリアム・ヘンリー・ドナルドから宣伝工作に参加するよう勧誘された<ref name=sanktimp/>。ドナルドはファーイースタンレビュー紙編集員であったが、オーナーと日本の衝突によって1915年より[[反日]]の立場となり、日本を声高に非難してきた<ref name=wglewis> Winston G. Lewis,[http://adb.anu.edu.au/biography/donald-william-henry-5992 Donald, William Henry (1875–1946)],Australian Dictionary of BIOGRAPHY.(Volume 8, MUP, 1981),2016年10月31日閲覧。「by 1915 he had become an extremely vocal critic of Japanese imperialism.」</ref>。ドナルドは[[張学良]]の顧問の後に蒋介石夫妻の私的顧問となっていた<ref name=wglewis/>。ドナルドは、国民党シドニー支部で勤め、国民党19路軍でプロパガンダを担当していたウィリアム・ジョセフ・リュウと親しかった<ref name=liuwj>Barry McGowan,[http://adb.anu.edu.au/biography/liu-william-joseph-14161 Liu, William Joseph (1893–1983)]2016年10月31日閲覧、Australian Dictionary of Biography, Volume 18, (MUP), 2012.リュウは[[ニューサウスウェールズ州]]中華總商会副代表でもあった。</ref>。リュウは1931年に[[田中上奏文]]によって日本の世界征服計画によって中国と満州が被害者となっていると主張した著書 China and the Trouble in Manchuria:what it means to China, Japan, Russia and the world(『中国と満州問題:中国、日本、ロシア、世界にとっての意味』)を出版するなど有力な反日プロパガンダ運動家だった<ref name=liuwj/><ref>China and the trouble in Manchuria : what it means to China, Japan, Russia and the world,Sydney : Society of Chinese Residents in Australia, 1931 .</ref>。ドナルドの紹介で国民党のプロパガンダ工作員として勧誘されたティンパリーは、国民政府元財政部長宋子文と月額1000ドルの報酬で合意し、1938年に「戦争とは何か」を刊行した<ref name=sanktimp/>。従って、前述した渡辺久志や[[笠原十九司]]はティンパリーが国民党顧問になったのは「戦争とは何か」刊行後の1939年であったため、国民党のプロパガンダとティンパリー著作とは無関係であるとする主張に対して<ref name=wat/><ref name=ronsosi/>、すでに1937年にティンパリーは「戦争とは何か」を発表前に国民党のプロパガンダ工作員となっていたことがマクヒュードキュメントや[[董顕光]]の証言で明らかになってきた<ref name=sanktimp/>。中央宣伝部副部長の[[董顕光]]はティンパリーについて「彼は中国の勝利が民主主義世界にとって重要だとの信念を持って、私のスタッフになった」と回顧している<ref name=sanktimp/>。ティンパリーはその後、国民党国際宣伝処のイギリス・アメリカ支部の開設に尽力し、1938年7月に国際宣伝処顧問に正式に就任し、同年9月にマンチェスター・ガーディアンを辞職し、国民党の宣伝工作に従事した<ref>「中央宣伝部半年中心工作計画」国民党党史館所蔵</ref>が、董顕光によればティンパリーは専用[[クルーザー]]や自動車を要求するなど高慢になり、1941年後半には国民党国際宣伝処を辞任した<ref name=sanktimp/>。
 
==== エドガー・スノーの著作 ====