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1857-1859年、ウィーンの工科大学、次いでハンゼンの勧めで1860-1861年に[[新古典主義建築]]の中心地であったベルリンの建築アカデミーで学んだ。ウィーン美術アカデミー<!---([[:de:Akademie der bildenden Künste Wien|Akademie der bildenden Künste Wien]])--->に進学し、1863年卒業。同年、ウィーン市立公園に建てる会館(Kursalon クアサロン)の[[建築設計競技]]に応募し1等賞を得た(実際にはワーグナー案から大きく改変を受け建設された<ref>[[:de:Johann Garben|Johann Garben]]の設計により1865-67年に建設。</ref>)。
当時は[[リングシュトラーセ]]を飾る公共建築が数多く建てられ、[[歴史主義建築|歴史主義的]]な建築観が主流
1890年に市の都市計画顧問に就任し、ウィーンのための都市計画プロジェクトの準備に取り掛かる。同年以降、ウィーン市の交通施設・ドナウ整備委員会に参画し、ドナウ運河の水門、ウィーン環状鉄道の駅舎、トンネル、橋梁(1894-1899年)などの計画に関わった。
1891年に作品集を刊行。1894年にハゼナウアー([[:de:Carl_von_Hasenauer|Carl von Hasenauer]])<ref>新王宮、[[美術史美術館]]、[[ブルク劇場]]などをゼムパーとともに設計した。</ref>の後任として[[ウィーン美術アカデミー]]の教授に就任した。1897年、画家[[グスタフ・クリムト]]を中心に[[ウィーン分離派]]が結成されると、ワーグナーの教え子[[ヨゼフ・マリア・オルブリッヒ]]や[[ヨーゼフ・ホフマン]]が参加。
この前後にわたって[[フランツ・ヨーゼフ1世|フランツ・ヨーゼフ皇帝]]博物館の設計に執念を燃やした。1900年、ワーグナーはカールスプラッツ(カール広場)に博物館の建設を提案した。翌年、ウィーン市は第1次の[[建築設計競技]]を行い、ワーグナー案を含む8案を入賞としたが、反対派のため紛糾した。ワーグナーは度々設計変更を行い、1910年には世論に訴えるため、建設予定地に[[ファサード]]の実物大模型を造ったが大きな反響は得られず、結局博物館が実現することはなかった<ref>ゲレーツェッガー他、P193-199。</ref>。後期の代表作には、ウィーン郵便貯金局(1906年-1912年)、シュタインホーフ教会堂(1907年)などが挙げられる。
1912年、71歳のワーグナーはアカデミーを停年となった。1914年まで客員教授として学生を指導した。妻が未亡人になった後のことを考え第2の別荘を建てたが、1915年に妻が死去。[[第一次世界大戦]]中は失意の状態にあり、1918年に死去した。<ref>ゲレーツェッガー他、P45-48。</ref>
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