「ヴィルヘルム・カナリス」の版間の差分

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=== ヴァイマル共和国時代 ===
[[File:Bundesarchiv Bild 146-1976-088-40, Bedienstete des Marinekommandoamtes.jpg|240px|thumb|キール軍港時代のカナリス(後列左端)]]
カナリスは他の多くのドイツ軍人と同様、[[ドイツ革命]]と[[ヴァイマル共和政]]に反対し、[[フライコール]](義勇軍)に参加した。[[エアハルト海兵旅団]]([[コンスル (テロ組織)|コンスル(執政官組織)]]の前身)の指導者{{仮リンク|[[ヘルマン・エアハルト|de|Hermann Ehrhardt}}]]と仲間と見られる。 [[1919年]]にカナリスは、[[ローザ・ルクセンブルク]] ならびに[[カール・リープクネヒト]]殺害で告発された同義勇軍メンバーの[[軍法会議]]に関与した。被告の大部分は釈放された。カナリスの手回しによるところが大きかった、同年彼はエリカ・ヴァークと結婚した。カナリス夫妻は二人の娘を儲けた。
 
その後、カナリスは[[グスタフ・ノスケ]]国防相の副官の一人となったが、[[1920年]]の[[カップ一揆]]に関与したために一時逮捕された。しかし無罪となりすぐに釈放されて、結局、キール軍港へ左遷されるのみで済んだ。カナリスは1923年に[[ブレーメン級小型巡洋艦]]「ベルリン」の艦長となり、ここで海軍に入隊したばかりの[[ラインハルト・ハイドリヒ]]と知り合う。ハイドリヒを引き立てて彼を海軍士官学校へと進ませた。ハイドリヒとカナリスは年齢は離れていたが、親密な交友関係を持つようになった。しかしハイドリヒは結局1931年に女性問題のもつれから海軍を不名誉除隊することになる。