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{{統合文字|榊}}
'''榊原 忠之'''(さかきばら ただゆき、[[明和]]3年([[1766年]]) - [[天保]]8年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]([[1837年]][[8月20日]]))は[[江戸時代]]後期の[[旗本]]。
[[織田信昆]](旗本[[織田信義]]の四男)の三男で[[榊原忠尭]]の養子。{{要出典|妻は[[藤懸永種]]の娘。|date=2016年11月}}[[勘定奉行]]や[[新潟奉行]]に就任した[[榊原忠義]]は長男。初名は織田信成。[[通称]]は権之助、隼人助、弥兵平衛、隼人助。官位は[[従五位]]下[[主計寮|主計]]頭。江戸北町奉行として手腕を振るい、[[鼠小僧次郎吉]]を捕らえたことで著名
 
== 経歴 ==
忠之が継いだ旗本榊原家は、元々[[館林藩]]主であった[[榊原康勝]]が急死した際、隠し子として後に出仕した[[榊原勝政]]の次男、[[榊原政喬]]を祖としている。つまり、[[高田藩]]榊原家の分家にあたる家であった。曽祖父の[[榊原兼憲]]は高田藩士から養子に入っている。
[[寛政]]8年([[1796年]])4月19日、養父忠尭の[[隠居]]により[[家督]]を相続、11代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家斉]]に拝謁する。榊原家は[[下総国]][[海上郡]]内などで700石を領有する旗本であった。[[徒士]]頭、西ノ丸[[目付]]、[[小普請奉行]]と昇進し、主計頭に叙任。[[文化]]12年([[1816年]])には勘定奉行に、[[文政]]2年([[1819年]])閏4月1日に[[町奉行|北町奉行]]に栄転した。
 
[[寛政]]8年([[1796年]])4月19日、養父忠尭の[[隠居]]により[[家督]]を相続、11代[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家斉]]に拝謁する。榊原家は[[上野国]][[邑楽郡]]・[[山田郡]]・[[相模国]][[鎌倉郡]]上郷町(現在の横浜市[[戸塚区]]上郷)内などで700石を領有する旗本であった。曽祖叔母は江ノ島岩本院(現在の[[江島神社]])に嫁いでいる。<ref>堀田正敦編『寛政重脩諸家譜』第1輯、巻101「義家流足利支流・榊原系図」より。國民圖書、1922</ref>
忠之は迅速かつそつのない裁決で、在任中に[[鼠小僧次郎吉]]、[[相馬大作事件|相馬大作]]、[[木鼠吉五郎]]など、世間を騒がせた規模の大きい裁判も多数担当した。木鼠吉五郎を尋問した際には、吉五郎が最後まで自白しなかったため、[[察斗詰]]を[[老中]]に申請して措置を下した。天保7年([[1836年]])9月20日、長く要職をつとめた町奉行から旗本の名誉職である[[大目付]]に転任した。さらに、天保8年(1837年)5月16日に[[留守居]]に転じたが、同年7月20日に死去、[[享年]]72。
 
忠之は[[寛政織田信包]]8年([[1796年]])4月19日、養父忠尭[[隠居]]により[[家督]]を相続、11[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家斉]]の子孫拝謁する。榊原家は[[下総国]][[海上郡]]内などで700石を領有する旗本でり、[[徒士]]頭、西ノ丸[[目付]]、[[小普請奉行]]と昇進し、主計頭に叙任。[[文化]]12年([[1816年]])には勘定奉行に、[[文政]]2年([[1819年]])閏4月1日に[[町奉行|北町奉行]]に栄転した。
[[水野忠邦]]から[[台付]]の流行を取り締まるよう命じられた時、[[富籤|富くじ]]を幕府公認の博打として許しながら、金の変動がより零細な台付のみを取り締まれというのは道理に合わないと喝破したという。また、癒着を求めて商人[[杉本茂十郎]]が賄賂を差し出してきた折には、逆に杉本を摘発するなど、剛直で私曲のない人物を伺わせる話が伝わっている。
 
北町奉行としての忠之は迅速かつそつのない裁決を行い、江戸市民から人気があった。北町奉行在任は17年に及び、これは歴代江戸町奉行でも長期にわたる。『想古録』では、「前任者が七八年、時には十年以上掛かっていた採決を二三日で行ってしまう」ほどのスピード裁判であったと伝えており、長期にわたる訴訟で訴訟費用に苦しんでいた江戸庶民から歓迎された。また、在任中に[[鼠小僧次郎吉]]、[[相馬大作事件|相馬大作]]、[[木鼠吉五郎]]など、世間を騒がせた規模の大きい裁判も多数担当した。
墓は芝・[[増上寺]]塔中の安蓮社(現・[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[芝公園]]三丁目の浄土宗安蓮社)境内に墓塔(宝筐院塔)のみある。
 
忠之は迅速かつそつのない裁決で、在任中に[[鼠小僧次郎吉]]、[[相馬大作事件|相馬大作]]、[[木鼠吉五郎]]など、世間を騒がせた規模の大きい裁判も多数担当した。木鼠吉五郎を尋問した際には、吉五郎が最後まで自白しなかったため、[[察斗詰]]を[[老中]]に申請して措置を下した。天保7年([[1836年]])9月20日、長く要職をつとめた町奉行から旗本の名誉職である[[大目付]]に転任した。さらに、天保8年(1837年)5月16日に[[留守居]]に転じたが、同年7月20日に死去、[[享年]]72。
 
老中[[水野忠邦]]から[[台付]]の流行を取り締まるよう命じられた時、一旦「畏まりました」と引き下がった後で、隣室で大声で水野老中に聞こえよがしに「[[富籤|富くじ]]を幕府公認の博打として許しながら、金の変動町人より零細行うささやかな台付のみを取り締まれという御触が出せるもは道理に合わないと喝破したか!」、台付規制を撤回させた。また、癒着を求めて商人[[杉本茂十郎]]が賄賂を差し出してきた折には、逆に杉本を摘発するなど、剛直で私曲のない人物を伺わせる話が伝わっている。<ref>これらの忠之の事跡はほとんど丹野顕『江戸の名奉行』文春文庫、2012による。</ref>
 
{{要出典|墓は芝・[[増上寺]]塔中の安蓮社(現・[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]][[芝公園]]三丁目の浄土宗安蓮社)境内に墓塔(宝筐院塔)のみある。|date=2016年11月}}
 
==江戸幕府役職履歴==
※日付=旧暦
*[[1798年]]([[寛政]]10年)5月22日、小姓組番士る。
*[[1806年]]([[文化 (元号)|文化]]3年)12月1日、小姓組番頭室賀信濃守正縄組衆から徒頭に異動。隼之助を称する
*[[1807年]](文化4年)6月1日、西丸(権大納言徳川家慶)目付に異動。
*[[1808年]](文化5年)9月1日、目付に異動。
*[[1814年]](文化11年)12月8日、小普請奉行に異動。12月16日、従五位下に叙し、主計頭に任官。
*[[1815年]](文化12年)6月17日、勘定奉行{{要出典|・勝手方に異動。12月22日、公事方に異動。
*[[1817年]](文化14年)3月1日、[[道中奉行]]を兼帯。|date=2016年11月}}
*[[1819年]]([[文政]]2年)閏4月1日、江戸北町奉行に異動。
*[[1836年]]([[天保]]7年)9月20日、大目付に異動し、{{要出典|供連掛を兼帯。|date=2016年11月}}
*[[1837年]](天保8年)5月16日、留守居に異動。7月20日、卒去。享年72。
 
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* [[大御所時代]]
* [[右門捕物帖 (1974年のテレビドラマ)]] - 北町奉行所同心の主人公・近藤右門の直属の上司。[[山形勲]]が忠之を演じた。
* [[八百八町夢日記]] - 忠之を主人公としたテレビ時代劇シリーズ。[[里見浩太朗]]が忠之を演じた。鼠小僧は忠之に捕らえられた後、密偵として忠之を支える設定(鼠小僧を演じたのは[[風間杜夫]])
* [[橋廻り同心・平七郎控]] - [[藤原緋沙子]]による時代小説シリーズ。忠之が主人公を「歩く目安箱」に任じ、様々な事件を解決させる。
 
== 脚注 ==
<references />
 
{{江戸町奉行|[[町奉行|江戸北町奉行]]|1819年 - 1836年}}