「栃錦清隆」の版間の差分

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[[1958年]]後半は不調で引退も囁かれたが、稽古不足で太った身体を逆に生かして正攻法の相撲に変え、1959年3月場所で「奇跡」と言われた復活優勝を果たし、その後は引退まで12勝を下回ることがない(昭和35年3月場所までの7場所間で95勝10敗、勝率9割0分5厘)という驚異の成績を続ける。
 
[[1959年]]に春日野が亡くなると、前年に廃止されていた[[二枚鑑札]]が特例として認められ、[[春日野部屋]]を継承する。1959年7月場所は優勝できなければ引退しようと考えた上で挑み、場所前から床山に中剃を断っていた。このでは14日目に優勝を決めたものの、その晩に祝宴に駆けつけようとした父親が交通事故死する悲運に見舞われた。しかし翌日の千秋楽に[[若乃花幹士 (初代)|若乃花]]を破って全勝優勝を決め、亡父への手向けとした<ref name="100retsu"/>。最後の優勝となった[[1960年]]1月場所では、この年から[[エール・フランス航空]]が毎年、初場所の優勝力士を[[ヨーロッパ]]へ招待することになり、栃錦は[[出羽ノ花國市|武藏川]]とともに渡欧した。
 
1960年3月場所には若乃花と史上初となる「14戦全勝同士で千秋楽に対決」したが敗れた。若乃花との通算対戦成績は栃錦の19勝15敗<ref>[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]を含むなら19勝16敗。うち一回は[[1956年]]9月場所、栃錦の不戦勝。この場所は、直前に長男を事故で亡くした若乃花が初日から12連勝したが、病気で無念の休場となった。</ref>。5月場所は初日から2連敗すると、「衰えてから辞めるのは本意ではない」という師匠の教えを忠実に守るかのように、潔く引退を表明した。こうして栃若時代が終焉した直後には柏鵬時代に移り変わっており、その様子は丁度世相が[[安保闘争]]から[[高度経済成長]]へと移行したタイミングと一致している。後年[[NHK|NHK解説委員会]]でもこの点について話題が挙がっている。<ref name="nhk">[http://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/400/147198.html 視点・論点「大鵬の時代」]NHK解説委員会 2013年02月06日(水)東京工業大学名誉教授・[[芳賀綏]]の記述</ref>