「サウンド・オブ・ミュージック (映画)」の版間の差分

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本作品は、あくまでマリアの自伝を「基にした」ミュージカルを「基にした」映画であり、元のミュージカルの時点から史実とは異なる点が多々ある。
*映画ではマリアは修道女のまま、修道院の紹介でトラップ家に家庭教師にやってくるが、史実では家庭教師になった時すでにマリアは修道院をやめている。体調を崩しての転職であった。
* ゲオルクには前妻(名前はアガーテ)との間に子供が7人いたが、マリアが家庭教師として教えたのは最初は次女(名前は同じマリア)であり、後に長女(母と同じアガーテ)に教えていて、7人の家庭教師ではない。
*ゲオルク・フォン・トラップの役名は、1956年と58年に西独で製作された『[[菩提樹 (映画)|菩提樹]]』や『[[続・菩提樹]]』ではバロン・フォン・トラップであり、『トラップ男爵』と訳されている。1965年のこの作品ではキャプテン・フォン・トラップとなっていて、映画の中では『キャプテン』と呼ばれ、マリアも『キャプテン』と呼んでいる。しかし婚約していたエルザは彼を『ゲオルク』〔英語風にゲオルグ〕と呼んでいる<ref>「サウンド・オブ・ミュージックで学ぶ欧米文化」 82~83P </ref>。ゲオルクは結婚式のシーンで佐の制服(オーストリアでは中金線3条)を着用しており、映画製作者側のゲオルグの設定に対する構想の変遷を垣間見ることができる。
*ラスト近くで「トラップ・ファミリー合唱団(シンガーズ)」の名でザルツブルの音楽祭に出演しているが、この楽団名はアメリカに渡って戦後になってから改名したもので、この当時は「トラップ・ファミリー聖歌隊」と名乗っていた。
*当時の実際の合唱団にはゲオルク・フォン・トラップの7人の連れ子の他に、マリアが産んだ2人(後にアメリカで3人目が生まれた)の子どもも加わっており、ラストの1938年当時は7人の連れ子はすでに大人<ref>7番目の女子マルティナが16歳であった。</ref>であって、マリアが生んだ2人<ref>ローズマリーが8歳、エレオノーレが6歳であった。</ref>だけが子どもであった。これは、実際に二人が結婚したのは1927年で、ラストの出国当時はそれから11年後の話であることによる。そして1956年に西独でマリア・フォン・トラップの手記を基に映画化された映画『[[菩提樹 (映画)|菩提樹]]』で、時代設定を10年ずらして、二人が知り合い結婚してすぐに出国するストーリーにして、子どもの顔触れも変えずにしたための矛盾である。「サウンド・オブ・ミュージック」も「菩提樹」の時代設定を踏襲している。<ref>「サウンド・オブ・ミュージックで学ぶ欧米文化」 21P </ref>
*音楽好きの家族で合唱団を結成して、音楽のコンクールに出ることになっているが、実際は大恐慌によりゲオルクが資産を預けていた銀行が倒産。無一文となったゲオルクに対して、マリアは神学生に下宿を貸出して金を稼ぎ、その下宿人だった神父フランツ・ヴァスナーが子供たちの音楽指導を行ったのである。実際にはり、マリアではない。『[[菩提樹 (映画)|菩提樹]]』では、教会へのオルガンの寄付を依頼しにトラップ家を訪れたヴァスナー神父が子供達の歌声を聴いて飛び入りで合唱指導を始める、という設定になっている。
*実際にはオーストリアにおいてもドイツによるオーストリア併合を支持する国民も多く、動画サイトなどではこの映画の演出と異なりドイツ国旗を振りながら喜んでドイツ軍や[[アドルフ・ヒトラー]]を迎えるオーストリア国民の群衆を見ることが出来る。ドイツ軍進駐後にドイツ政府によって行われた国民投票では97%が賛成したとされるが、ドイツ軍進駐前に国民投票を行えば合併拒否が選択されることは確実であったという見解もある。ただしヒトラー自身がオーストリア出身である。詳しくは[[アンシュルス#ドイツによる併合]]を参照のこと。『菩提樹』ではオーストリアの民衆が歓声をあげてドイツ軍を迎える様子を伝えるラジオ放送をトラップとマリアが苦々しい表情で聞いている場面がある。
*この映画は全般的に親衛隊と突撃隊とを混同して演出している。ちなみに、突撃隊はナチス内部の権力闘争の結果この映画の舞台となった1938年にはその活動は下火になっている。ラストで追われるトラップ一家を追跡する一隊の制服は、ゼラーの副官は黒色の制服(親衛隊)だがその下の隊員(ロルフら)は褐色の制服(突撃隊)である。詳細は[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]と[[突撃隊]]を参照。
*トラップ一家が生まれ故郷オーストリアを離れることを決心したのは、ゲオルクの元に[[召集令状]]が届いたためだけでなく、ドイツ海軍の潜水艦艦長に就任するように要請され、また長男ルーペルトがユダヤ人医師を強制収容所送りにした後の病院に勤務することも要請され、さらに[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の誕生日にミュンヘンのラジオ局でトラップ一家が歌えと要請されて、いずれも断ったことで、オーストリアに留まることが危険であると判断したことと、当時ナチス党員であった執事のハンスがオーストリア国境がもうすぐ閉鎖されることを伝えたことが大きい。<ref>「サウンド・オブ・ミュージックで学ぶ欧米文化」17~18P</ref>
*映画ではコンクールの最中に徒歩で逃げ出してナチス親衛隊の追跡を振り切るが、史実では周囲に全く気づかれないように普段着で家の裏庭を出て、北イタリア行きの列車に乗ってイタリアの南チロルの山に逃げ、国境を越えて[[フランス]]へ列車で移動し、そしてイギリスに渡り、[[サウサンプトン]]から船でアメリカに向った。映画のようにスイスへの山越えではない。ところで何故イタリアに行ったのかについては、当時トラップ一家は戦前オーストリア領で戦後イタリア領になった[[トリエステ]]で市民としてイタリアの市民権を持っていて、まだ独伊同盟が締結される前年で、オーストリア併合に反対したイタリア国内の動きからナチスといえどもイタリア市民権を持つ者を勝手に逮捕することが出来なかったことによる。<ref>「サウンド・オブ・ミュージックで学ぶ欧米文化」 18~19P </ref>
*オーストリアを脱出する山越えのシーンは視覚効果のためか、ザルツブルクからスイスの間を結ぶ通常のルートとは全く異なる場所で撮影された。現実のザルツブルクから歩いて山を越えると、そこはドイツ(バイエルン州)の[[ベルヒテスガーデン]]である。近辺には[[ベルクホーフ|アドルフ・ヒトラーの別荘]]すら存在する。ザルツブルクはドイツとの国境が近く、その半分以上の方角がドイツとの国境である。そしてザルツブルクからスイス国境までの間は相当な距離があり徒歩で移動するには遠すぎる。地元住民の視点においては非常に不自然なラストシーンである<ref>「映画になった奇跡の実話」 鉄人ノンフィクション編集部</ref>。
*実際の[[マリア・フォン・トラップ]]も活動的ではあったが、同時に勝ち気な癇癪持ちでもあり、ゲオルクの方がむしろマリアを優しくなだめる一家のまとめ役であり、音楽好きな性格であった。渡米後にトラップ・ファミリー合唱団が解散したのは、ゲオルクの死後マリアだけで子供達をまとめきれなかったのも一因とされる。