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'''ユリアン・ノール'''(Julian Knowle, [[1974年]][[4月29日]] - )は、[[オーストリア]]出身の男子プロ[[テニス]]選手。ダブルスの得意な選手として知られ、[[2007年]]の[[全米オープン (テニス)|全米オープン]]男子ダブルスで[[シーモン・アスペリン]]([[スウェーデン]])とペアを組んで優勝した。[[2004年]]の[[ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]男子ダブルスで[[ネナド・ジモニッチ]]([[セルビア]])と組んだ準優勝もある。[[男子プロテニス協会|ATP]]ツアーでシングルスの優勝はないが、ダブルスで13勝を挙げている。フォアハンド・ストローク、バックハンド・ストロークともに両手打ちで、左利きの選手。自己最高ランキングはシングルス86位、ダブルス6位。日本語では「ジュリアン・ノウル」の表記も多く見られる。
 
父親が時計販売員、母親は健康温泉経営者という家庭に生まれ、6歳から[[テニス]]を始めた。[[1992年]]に18歳でプロ入りしたが、彼は男子ツアー下部組織の大会群で長い下積み生活を送り、プロ入りから9年後の[[2001年]]にようやく[[男子プロテニス協会|ATP]]ツアーのイベントにデビューを果たす。彼の[[グランドスラム (テニス)|4大大会]]初出場は、ダブルスが[[2001年全仏オープン|2001年全仏オープン]]で、シングルスは同年の[[2001年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]であった。ノールの4大大会シングルス自己最高成績は、[[2002年ウィンブルドン選手権|2002年ウィンブルドン]]の3回戦進出で、この試合では第1シードの[[レイトン・ヒューイット]]に 2-6, 1-6, 3-6 のストレートで完敗した。[[2005年]]8月のオーストリア・[[グラーツ]]大会(下部ツアー・チャレンジャーの大会)を最後に、彼はすべてのシングルス出場から撤退し、得意のダブルスに専念するようになる。
 
ノールは4大大会初出場だった[[2001年全仏オープン|2001年全仏オープン]]の男子ダブルス3回戦進出から始まり、ツアー大会でダブルスを得意にしてきた。[[2002年]]に男子ツアーのダブルスで年間2勝を挙げ、この分野で躍進を始める。[[2004年]]の[[2004年ウィンブルドン選手権|ウィンブルドン]]男子ダブルスで、[[ネナド・ジモニッチ]](当時[[セルビア・モンテネグロ]]国籍)とペアを組んで初めての決勝戦に進んだが、ウィンブルドン男子ダブルス3連覇を狙った[[トッド・ウッドブリッジ]]([[オーストラリア]])&[[ヨナス・ビョルクマン]]([[スウェーデン]])組に 1-6, 4-6, 6-4, 4-6 で敗れ、最初のチャンスを逃した。[[2005年]]の[[2005年全仏オープン|全仏オープン]]男子ダブルスで、同じオーストリアの[[ユルゲン・メルツァー]]と組んでベスト8に入る。ノールとメルツァーは、[[2007年]]春まで大部分のトーナメントでコンビを組んだ。
 
[[2007年]]4月の[[モンテカルロ・マスターズ]]で、ノールは初めて[[シーモン・アスペリン]]([[スウェーデン]])とコンビを組んだ。これを契機にアスペリンと組む機会が増え、[[2007年全米オープン (テニス)|2007年全米オープン]]で4大大会男子ダブルス初優勝を決めた。2人は全米決勝で[[チェコ]]ペアの[[ルーカス・ドロウヒー]]&[[パベル・ビズネル]]組を 7-5, 6-4 で破り、ノールは[[2004年ウィンブルドン選手権|2004年ウィンブルドン]]以来のチャンスをものにした。優勝した時はノールとアスペリンの両選手とも33歳で、遅い年齢での優勝だった。ノールとアスペリンは[[2008年]]末までペアを組み続けたが、同年10月末の[[パリ・マスターズ]]を最後にペアを解消した。