「佐々木禎子」の版間の差分

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[[ファイル:Sadako Sasaki3.jpg|thumb|right|250px|永遠の眠りにつく佐々木禎子(1955年10月)]]
[[ファイル:Noborimachi-cyugaku PICT0059.JPG|thumb|250px|right|佐々木禎子が在籍していた[[広島市立幟町中学校]]にある折り鶴の碑]]
[[1955年]]8月に[[名古屋市|名古屋]]の[[高校生]]からお見舞いとして折り鶴が送られ、折り始める。禎子だけではなく多くの入院患者が折り始めた。病院では[[折り紙]]で[[千羽鶴]]を折れば元気になると信じてツルを折りつづけた。8月の下旬に折った鶴は1000羽を超える。その時、同じ部屋に入院していた人は「もう1000羽折るわ」と聞いている。その後、折り鶴は小さい物になり、針を使って折るようになる。当時、折り紙は高価で、折り鶴は薬の包み紙のセロファンなどで折られた。1000羽折ったものの病気が回復することはなく同年10月25日に[[亜急性リンパ性白血病]]で死亡した。最後はお茶漬けを二口食べ「あー おいしかった」と言い残し亡くなった<ref>[http://www.noborichou-e.edu.city.hiroshima.jp/sasaki_sadako/sadako_oitati.html 幟町小学校-佐々木禎子について(本校の平和教育)2-]</ref>。
 
死後、禎子が折った鶴は葬儀の時に2、3羽ずつ参列者に配られ、[[棺]]に入れて欲しいと呼びかけられ、そして遺品として配られた。
 
禎子が生前、折った折り鶴の数は1300羽以上([[広島平和記念資料館]]発表)とも、1500羽以上(「Hiroshima Starship」発表)とも言われ、ピーター・フォンダ[[甥]]でミュージシャンの[[佐々木祐滋]]は「2千以上のようです」と語っている(2010年2月22日朝日新聞)。実際の数については遺族も数えておらず、不明である。また、三角に折られた折りかけの鶴が12羽有った。その後創られた、多くの創話により1000羽未満の話が広められ、折った数に関して多くの説が出ている。
 
2013年10月、病床で作った折り鶴のうち1羽が母校の[[広島市立幟町小学校]]に寄贈されることとなった<ref name="chugoku-np">{{Cite news|url=http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201310240014.html|title=「禎子の鶴」命日に母校へ|newspaper =[[中国新聞]]|date=2013-10-24|accessdate=2013-10-24}}</ref>。また、2010年からは[[ハリー・S・トルーマン|トルーマン]]元大統領の親族と佐々木禎子の親族の間で親交がもたれ、2015年11月にトルーマン元大統領の[[大統領図書館]]に折り鶴のうちの1羽が寄贈された<ref>{{Cite news|url=http://www.nishinippon.co.jp/nnp/nagasaki/article/208442|title=サダコの折り鶴、米に寄贈 平和への誓い新た|newspaper =[[西日本新聞]]|date=2015-11-21|accessdate=2015-11-21}}</ref>。