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Yasaikarei (会話 | 投稿記録)
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== 生涯 ==
=== 前半生 ===
佐々木武雄は1905年に、[[北海道]][[小樽市|小樽]]に生まれる<ref name="hn"></ref>。[[横浜高等工業学校]]建築科の第一回生であり、在学中は[[応援団]]団長や講演部委員長として活躍した。卒業の頃、佐々木は[[安部磯雄]]、[[片山哲]]、[[赤松克麿]]らの思想に共鳴し[[社会民衆党]]に入党。その後さらに赤松らが社会民衆党を離党して結成した[[日本国家社会党]]の結成に参加し、1934年に同党から赤松が抜けて残った[[小池四郎]]が愛国政治同盟(後に赤松の[[日本革新党]]に合流)に改称されると、佐々木はその青年部を担当した隊の隊長となる<ref>[[#大山]] pp.24</ref>。その頃には、[[大川周明]]、[[石原莞爾]]らとも交流関係を持っており、行動右翼の一人として[[横浜市|横浜]]周辺では名が知れた人物であった<ref name="hs105">[[#秦昭和史下]] p.105</ref>。
1937年7月、支那事変の勃発とほぼ同時に佐々木は応召、旭川工兵第7大隊に入隊し、北支戦線に派遣され小隊長となる。1941年9月には再び応召し、[[北千島]]の[[幌筵島]]に[[北千島臨時要塞|北千島要塞]]工兵隊長として派遣された。[[太平洋戦争]]開戦の12月8日頃に大尉に昇進、その後、[[北部軍 (日本軍)|北部軍司令部]]付となる。1942年の暮には再度横浜に戻った<ref name="oyama25">[[#大山]] p.25</ref>。