「松山城 (備中国)」の版間の差分

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近世を通じ、城主は池田氏、水谷氏、安藤氏、石川氏と入れ替わり、最後の城主は板倉氏であった。
 
[[慶長]]45年([[1600年]])[[関ヶ原の戦い]]で毛利氏が西軍につき敗れた後、[[徳川幕府]]が城番([[小堀正次]]・[[小堀政一|政一]])を置いた。この頃、麓に御根小屋が築かれた。
 
[[元和 (日本)|元和]]3年([[1617年]])、[[池田長幸]]が入城し、6万3000石で立藩するが、[[寛永]]18年([[1641年]])、2代[[池田長常|長常]]が嗣子なく没したため同家は廃絶。[[備後福山藩]]主の[[水野勝成]]家臣が城番となった。翌寛永19年([[1642年]])、[[水谷勝隆]]が5万石で入封。2代[[水谷勝宗|勝宗]]は[[天和 (日本)|天和]]元年([[1681年]]) - 天和3年([[1683年]])にかけて天守建造など3年にわたる大修築を行い、城は現在の姿となった。しかし、3代[[水谷勝美|勝美]]は嗣子なく[[元禄]]6年([[1693年]])10月に死去。その養子となった[[水谷勝晴|勝晴]]はわずか1か月後の同年11月に13歳で早世し、水谷家は断絶した。