「大陪審」の版間の差分

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[[イギリス]]では、[[10世紀]]末頃、[[サクソン人|サクソン族]]が大陪審に類似した制度を持っていたとされる。また、[[1066年]]の[[ノルマン・コンクエスト]]により、大陸から大陪審の原型となる制度がもたらされたとされる。現在の大陪審制の基礎を作ったのは、イングランド王[[ヘンリー2世 (イングランド王)|ヘンリー2世]]が1166年に制定したクラレンドン勅令 ([[:en:Assize of Clarendon|en]]) であった。彼は、[[トマス・ベケット]]の専横に対抗して国王の権力を回復するための政策として、村ごとに12人の「善良かつ法律に従った男たち」を集め、犯罪を犯したと疑われる者の名を明らかにさせた<ref>U.S. Courts。</ref>。1215年の[[マグナ・カルタ]]では、[[ジョン (イングランド王)|ジョン王]]が貴族の要求に応じて起訴陪審を認めた。
 
1290年頃には、起訴陪審には、橋や公道の維持管理や監獄の欠陥について、また州長官が、司法の手に委ねられるべき者を拘束していないかについて調査する権限が与えられていた。[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]の治世(1368年)には、起訴陪審の人数が12人から23人に増やされ、被疑者を起訴するためには過半数の同意が必要とされた<ref>U.S. Courts。</ref>。
 
[[アメリカ合衆国]]では、[[マサチューセッツ]]湾植民地で 1635年に組織されたのが最初の大陪審とされる。植民地の大陪審は、1765年の[[印紙法]]について起訴を拒否するなどし、その独立性を示した<ref>U.S. Courts。</ref>。独立後、1791年に批准された[[権利章典 (アメリカ)|権利章典]](憲法修正5条)で大陪審が保障された。