「醍醐の花見」の版間の差分

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記録に残るその日の輿の順は、1番目に北政所、2番目に西の丸殿(淀殿)、3番目に[[京極竜子|松の丸殿]]、4番目に[[三の丸殿]]、5番目に[[摩阿姫|加賀殿]]、その後に側室ではない[[前田利家]]正室・[[芳春院|まつ]]が続いた。宴会の席では、正室である北政所の次に杯を受けるのを淀殿と松の丸殿が争い、北政所とは家族ぐるみの長い付き合いのまつが「歳の順から言えばこの私。」と、申し出て(まつは家臣筋といえど、この席では客人。客人をほうって於いて身内で順争いをするものではない為)その場をうまく取りおさめたという話が伝わっている。
 
諸大名は[[伏見城]]から醍醐寺までの沿道の警備や、会場に設営された八番の茶屋<ref>[[桑田忠親]]『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)153頁</ref><ref>一番は益田少将、山川みなぎりくだって、水がさかさまに流れるところに、反り橋をかけ、欄干を作っている。二番は新庄雑斎、松・杉・椎の木が三本並び、岩淵には清水をたたえ、鯉や鮒を放っている。三番は[[小川祐忠|小川土佐守]]、南破風口に、つなぎ馬の絵を描かせ、屋根は萱葺、垣は茅で囲い、あやつりの名人が芸をして見せた。四番は[[増田長盛|増田右衛門尉]]、三番から十五-六町も上にあった。岩窟の奥深いところにこしらえ、行水、午餐。設備に美をつくす。五番は[[前田玄以|前田徳善院]]、仮屋形風に作られる。六番は[[長束正家|長束大蔵大輔]]、夕食の御膳の支度あり:ここで装束をかえ和歌の会。七番は御牧勘兵衛(景則)。八番は[[新庄直忠|新庄東玉]]</ref>の路地茶屋<ref>[[山田孝雄]] <small>[[山田忠雄]] 校訳</small> 『櫻史』 [[講談社学術文庫]] ISBN 4061589164、221p。<br/>和歌の会で詠まれた[[短冊]]が[[国宝]]となった、という記述があるがこれは誤りで、国指定の[[重要文化財]]である。[http://www.daigoji.or.jp/archives/special_article/sp1_03.html 醍醐寺 文化財アーカイブス]</ref>(パビリオン)の運営などにはあたったが、花見に招かれたのは女性ばかりで、秀吉・秀頼の他には唯一前田利家の名が見えるのみである。この花見で詠まれた[[短冊|和歌の短冊]]は今も「醍醐花見短冊帖」として[[三宝院]]に保管されている<ref>桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)155頁</ref>。
和歌の会で詠まれた[[短冊]]が[[国宝]]となった、という記述があるがこれは誤りで、国指定の[[重要文化財]]である。[http://www.daigoji.or.jp/archives/special_article/sp1_03.html 醍醐寺 文化財アーカイブス]</ref>(パビリオン)の運営などにはあたったが、花見に招かれたのは女性ばかりで、秀吉・秀頼の他には唯一前田利家の名が見えるのみである。この花見で詠まれた[[短冊|和歌の短冊]]は今も「醍醐花見短冊帖」として[[三宝院]]に保管されている<ref>桑田忠親『桃山時代の女性』(吉川弘文館、1972年)155頁</ref>。
 
[[応仁の乱|応仁・文明の乱]]のあと荒れ果てていた醍醐寺を復興した中興の祖、第80代[[座主]]である[[義演]]は、秀吉の[[帰依]]を得て良好な関係を築いていたが、秀吉の最期が近いことを感じ取り、一代の華麗な英雄の最後にふさわしい大舞台をしつらえるために、あちこちにそれとなく手配をしてこの醍醐の花見を実現させたともいう。秀吉はこの約5か月後に没した。
 
醐寺では、現在でもこれにちなんで毎年4月の第2日曜日に「豊太閤花見行列」を催している。
 
== 内容 ==
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