「アルバート・ケテルビー」の版間の差分

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その後、30歳を過ぎた頃には本格的な[[室内楽]]や[[協奏曲]]にも傾注するが出版までには至らず、むしろポピュラーな[[軽音楽]]作曲家として名を挙げ、それらの作品は[[サイレント映画]]での伴奏音楽やカフェあるいはボールルームでの[[ムード音楽]]などとしてもてはやされ、放送局やレコード会社などの当時新しいメディアでの音楽ディレクターとして活躍した。
 
1912年(37歳)、軽く書いたつもりの「ファントム・メロディ」が大ヒットしてからは、「[[ペルシャの市場にて]]」に代表されるようなエキゾチックな描写音楽の方面での才能が期待され、作曲・演奏したレコードは売れ、コンサートも大いに受けた。
 
その人気により、[[アムステルダム]]の[[ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団|コンセルトヘボウ]]の客演指揮者としても招かれたこともあるが、本格的なクラシック音楽の作曲家としては、1980年代に「The New Grove Dictionary of Music and Musicians」の改訂版に彼の名が載るまで認められなかった。[[アラビア]]や[[東南アジア]]の[[民族音楽]]や日本の国歌「[[君が代]]」を[[モチーフ (音楽)|モチーフ]]として用いるなど、[[オリエンタリズム]]に基づいた異国趣味的な作品を多く遺しており、クラシック入門者のファンは多い。