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賈充の母は節義を重んじ、曹髦を殺害した成済の不忠を常々罵倒していた。しかし、成済に殺害を命じたのが息子であるとは知らず、周囲の冷笑を買っていた。母は死に臨んで、賈充に先妻の李氏を呼び戻すよう言い残して事切れた。
 
当初、賈充は李氏(魏の李豊の娘)を娶っていたが、李豊が謀反の罪で司馬師に殺害されると、李氏をも賈充と離婚させた。賈充は郭槐(郭配の娘。郭配は[[郭淮]]の弟)を後妻に迎えた。後妻の郭槐は嫉妬深い人物で、長男の賈黎民が乳母に抱かれ賈充にあやされたのを見て、乳母が夫と私通していると疑い、鞭打って殺した。賈黎民は乳母に懐いていたので、乳母を思うあまり発病して死んでしまった。さらに次男を産んだが、これも乳母を嫉妬した挙げ句に殺したため、次男は乳母を思うあまり発病して死んでしまった。育ったのは娘の賈南風と賈午だけであり、男子がいなかったため賈氏は後継者がいなくなってしまった。
 
西晋が成立すると、[[恩赦|大赦]]が行われ、魏で司馬氏に[[粛清]]された一族にも復権が認められた。司馬炎は、賈充の功績に配慮して李氏を呼び戻し、二人の夫人を置くよう詔を下した。しかし、郭槐が賈充の胸ぐらを掴んで反対したため、賈充は辞退した。さらに郭槐が李氏を亡き者にしようとしたが、賈充はそれを察すると郭槐を別居させようとした。賈南風が皇太子妃に立てられると、郭槐は娘と共に別居した。賈充は李氏に屋敷を用意し往来するようになったが、結局復縁しなかった。