「武蔵坊弁慶」の版間の差分

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[[ファイル:武蔵坊弁慶の墓.JPG|right|thumb|250px|[[平泉町]]にある弁慶の墓]]
義経一行は、[[陸奥国|奥州]]にたどり着き、[[藤原秀衡]]のもとへ身を寄せる。だが、秀衡が死ぬと、子の[[藤原泰衡]]は頼朝の威を恐れて、父の遺言を破り、義経主従を[[衣川館]]に襲った([[衣川の戦い]])。多数の敵勢を相手に弁慶は、義経を守って堂の入口に立って薙刀を振るって戦い、雨の様な敵の矢を受けて立ったまま死んだとされ、「'''弁慶の立往生'''」と後世に語り継がれた。[[岩手県]][[平泉町]]に弁慶の墓と伝わるものがある。
 
なお、義経主従は衣川館では死なず、[[平泉]]を脱出して現在の[[青森県]]や[[北海道]]へ逃れたとする、いわゆる「[[源義経#不死伝説|義経北行伝説]]」にも、弁慶に関するエピソードは数多く登場する。