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* 趣味の[[囲碁]]はアマチュア・トップクラスで、大正15年([[1926年]])に[[喜多文子]]五段に「二子のハンディ」の対局で勝利した棋譜が残されている。
* 「十六代様」と呼ばれたが、家達自身は「明治以後の新しい徳川家の初代」だという意識が強く、将軍家の十六代ではないと公言していた。
* 相撲好きで[[国技館]]の常連として有名であった。[[野村胡堂]]が贔屓の力士がいないように思えるとたずねたところ、好きな力士はいるが「家来や側近の者たちに、差別的な顔を見せてはならぬ。かりに、心の中で好き嫌いがあったとしても、絶対に色を表してはならない。こういう習慣で育ってきたのです」と答えた<ref>『[[胡堂百話]]』 40.平次の旅</ref>。大正11年、英国[[イギリス]]の[[エドワード8世 (イギリス王)|エドワード]]王太子来日時、自宅に招き、[[両国国技館]]から四本柱を運ばせ、[[横綱]]の[[大錦卯一郎|大錦]]や[[栃木山守也|栃木山]]ら十数名の力士を招いて、相撲を披露した。<ref>『殿さまは明治をどう生きたか』、2014年、河合敦 洋泉社 ISBN 978-4-8003-0379-0</ref>
* [[ピアノ]]や[[琴]]のような、うるさく音がするものを嫌った。孫の[[松平豊子|豊子]]は、「外国でおじじ様と演奏会などに行くでしょ。そうすると、なるべく(舞台から)遠い所へ行こうっておっしゃる。」と回想している。妻の泰子は、家達のいないところで孫に琴などを教えたという。
* [[同性愛]]の指向があり、華族会館の給仕を鶏姦し<ref>佐野眞一『枢密院議長の日記』(講談社現代新書)</ref>、そのことが度重なり、給仕に事を荒立てられ、大正6年([[1917年]])頃、この醜聞の口止め料として1万円(当時は大卒の初任給が50円程である)を支払ったことがある。このため、家達の実弟の[[徳川頼倫]]は[[牧野伸顕]]に「兄が恥を知らず、今なお公職を執り、引退の考えがないのは困ったものだ」と嘆いたことがあった。[[倉富勇三郎]]が牧野から聞いたところによると、家達の同性愛指向は華族間では知る者も多く、伯爵・[[松浦厚]]はこれに基づき家達の[[学習院]]総裁就任の話を潰したことがある<ref name="nagai">永井和「柳田國男、官界を去る」『立命館文学』第578号、2003年。</ref>。