「キャンディーズ」の版間の差分

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*日比谷野外音楽堂の解散宣言直後、メンバーの3人は改めて記者会見に臨み、およそ9か月後の1978年4月4日に正式に解散することを決めた。当初はファン、関係者とも賛否が分かれたが、「キャンディーズの3人が解散を望んでいる以上、それを支持する」ことで意思統一が図られた。
*後に、それは誰からともなく「最高の状態で解散する」ことへと気運が高まり(後述の[[穂口雄右]]の証言によれば、その5年も前からレッスンの場で「一番いい時に解散しようね」と誓いあっていたという)、そのためには今まで獲得していなかった[[オリコンチャート]]1位をとることが最終目標となった(それまでの最高位は「春一番」「わな」の3位)。このような状況下で、事実上のラスト・シングル「[[微笑がえし]]」の作詞を担当した[[阿木燿子]]は、キャンディーズの集大成となるように、それまでのA面タイトル(春一番、わな、やさしい悪魔、アン・ドゥ・トロワなど)を各歌詞の随所にちりばめていた。
*作曲を担当した[[穂口雄右]]はレコーディングの際、「キャンディーズに敬意を表し、<B>'''アイドル</B>'''ではなく<B>'''ミュージシャン</B>'''として処遇したい」と提案し、スタッフもこれに同意した。この穂口案は、「コーラスのパート譜を当日の、しかもレコーディングの時点で譜面台に用意する」、即ち初見でレコーディングを行うというものである。これほど厳しい条件にもかかわらず、譜面を手にした3人はミュージシャンとして難なくこれを歌いこなし、レコーディングは僅か3回のテイクで完了した。この一部始終を見ていた穂口は後年、以下のように懐古する。「あの(「微笑がえし」)コーラスは絶品であった。デビュー当時、音程を掴むのに苦労していた3人がここまで成長した。そこにいた3人はアイドルではなく、まさにプロのミュージシャンだった。あまりの嬉しさに私(穂口)は、涙を拭くことも忘れて3人のコーラスに聴き入った。ふと周囲を見ると、周りのスタッフも全員が泣いていた。」<ref>穂口雄右 - 現実になったビジョン 第6回(最終回)「微笑がえし」[http://candies.sound.co.jp/records/CD99/TrueVision/TrueVision6.html]</ref>
*「微笑がえし」が発売されてからは、主に全キャン連がこのラスト・シングルを1位にしようとラジオ番組で広報につとめたり、一部の地域では1人2枚以上の購入を呼びかける動きもあった。このように一部に「内輪受け」の要素があったのは事実だが、それを差し引いても「微笑がえし」は春の別れと旅立ちをイメージした曲であり、一般層をも巻き込んで解散直前の1978年3月12日、ついに念願のオリコンチャート1位を獲得した。
*ラスト・シングルでキャンディーズ自身最初で最後の1位を飾り、文字通り最高の状態で解散を迎えることが出来たのはメンバーの3人に起因するところのみならず、前述の通り解散宣言からラスト・シングルまで関係者やファンまで全てが一体となって、即ち全てが「キャンディーズ」なる現象と化したためとの一考がある。