「聖バレンタインデーの虐殺」の版間の差分
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'''聖バレンタインデーの虐殺'''(せいバレンタインデーのぎゃくさつ、[[英語|英]]: St. Valentine's Day Massacre)とは、[[1929年]][[2月14日]]に[[シカゴ]]で起きたノースサイド・ギャングとサウスサイド・ギャング(後の[[シカゴ・アウトフィット]])との間で起きた抗争事件である。別名、'''聖バレンタインデーの悲劇'''、'''血のバレンタイン'''とも呼ばれる。
犯行はサウスサイド・ギャングのボスである[[アル・カポネ]]が指揮していたと言われ、抗争を繰り広げていた[[ジョージ・モラン|バッグズ・モラン]]率いるノースサイド・ギャングの
== 事件概要 ==
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マックガーンは暗殺部隊としてカポネの用心棒フレッド・“キラー”・バーク(Fred Burke)、[[アルバート・アンセルミ、ジョン・スカリーゼ|ジョン・スカリーゼ、アルバート・アンセルミ]]、ジョゼフ・ロロルド、キューウェル兄弟(パープル・ギャングのメンバー)の6人のチームを編成した。一部資料によると、ヒットマンの中に[[トニー・アッカルド]]、[[サム・ジアンカーナ]]もいたという説もある。
1929年2月14日の午前10時半頃、モランと
しかし、モランは倉庫に到着するのが数分遅れたため倉庫の前に偽物のパトカーが止まっているのを見て警察の手入れを恐れて、連れのマークスとニューベリーの2人とその場を逃げ出し、事なきを得た。
カポネは事件当時は[[フロリダ]]で事情聴取を受けていた。マックガーン、アンセルミ、スカリーゼは事件後起訴されたが、アリバイを主張して無罪となった。結局、この虐殺の罪では一人も逮捕されなかった。事件後、ノースサイド・ギャングはカポネに対して最早重要な脅威ではなくなり、モランは[[1957年]]まで生き永らえた。
この凄惨な事件がマスコミによって大々的に取り上げられると、これまで大衆の人気者だったカポネは一転憎悪の的となり、警察は総力を挙げてカポネ起訴に乗り出すことになる。
ちなみに事件現場の倉庫は[[1967年]]に取り壊され、現在は隣接する老人ホームの庭園及び駐車場となっている[http://chicagocrimescenes.blogspot.jp/2008/09/st-valentines-day-massacre.html]。
== 被害者 ==
ピーター・グーゼンバーグ(モラン組のヒットマン)。
フランク・グーゼンバーグ(モラン組のヒットマン。ピーターの実弟)。
アルバート・カチェレック(別名:ジェームズ・クラーク。モラン組の副司令官)。
アダム・ヘイヤー(モラン組の帳簿係兼ビジネスマネージャー)。
ジョニー・メイ(モラン組に雇われた臨時の自動車整備工)。
アルバート・ウェインシャンク(クリーニング店の店主。服装や背格好がモランと似ていたため間違われたとの説あり)。
ラインハルト・シュヴィマー(眼鏡屋)。
== 事件を扱ったテレビ番組 ==
* ドキュメンタリー『
* 『
== 関連項目 ==
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