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嘉永6年(1853年)に[[江戸]]に生まれる。[[元治]]元年([[1864年]])に母の実家([[原氏#下総原氏|原氏]])の当主・原胤保が早世したためその養子となる。[[慶応]]2年([[1866年]])に[[町奉行|江戸南町奉行所]]の無足見習となり、翌慶応3年([[1867年]])に本勤めとなった。[[明治維新]]の後、[[東京府]]の職員になるが、明治5年([[1872年]])に職員減員のため免職。明治7年([[1874年]])に[[東京第一長老教会]]で[[クリストファー・カロザース]]宣教師より洗礼を受ける。この時、感謝の催しとして、築地にあったカロザースの妻[[ジュリア・カロザース|ジュリア]]の女学校<ref>ジュリアが築地居留地6番館の自宅で行っていた女学校。後に長老派女学校(A六番女学校)さらに、成樹学校そして原女学校になる。</ref>において[[クリスマス]]祭を開いている。ここに登場したのが、日本最初の[[サンタクロース]]であったとされる。ただし、このときのサンタクロースを演じたのは[[戸田忠厚]]で、彼は裃を着用、大小の刀を差し、鬘をかぶった純日本風のサンタクロースであったようである。後に銀座独立教会の創立会員になっている。
 
同じく明治7年(1874年)に[[キリスト教]]書店の[[銀座十字屋|十字屋]]を創業し、キリスト教書(洋書)の出版活動に従事する。明治11年([[1876年]])、ジュリア・カロザースの経営していた成樹学校を改組、改名し、[[原女学校]]を開設した。明治15年([[1882年]])に[[小林清親]]の[[錦絵]]「新版三十二相」を版行、翌明治16年([[1883年]])9月から[[福島事件]]の被告の肖像画「天福六家撰」を版行するが、これが[[自由党 (日本 1881-1884)|自由党]]員を応援するような内容の[[錦絵]]であるとして3枚出版したのみで発禁処分を受け、原自身も[[新聞紙条例]]違反等の罪に問われ、軽禁錮3月・罰金30円の刑に処され、[[石川島監獄]]に収監される。また同年、清親による「三十二相追加百面相」を出版している。送られた監獄は、かつて見回り方を務めていた石川島[[加役方人足寄場|人足寄場]]が改まったものであった。この収監中に見た囚人の窮状から、監獄の改良や出獄者の保護が必要であると実感し、出獄後には[[教戒師]]になり釧路[[集治監]]で勤める。また、明治31年([[1898年]])に[[出獄人保護所]]を創立、一万三千人の出獄人を保護した。また、日本で初めて本格的に[[児童虐待]]の問題に取り組み、明治42年([[1909年]])に児童虐待防止協会([[1990年]]に設立された同名の団体とは別物)設立。家庭内の虐待と児童労働による酷使の双方の解決に尽力した。
 
== 著書 ==