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庶長子の長孝は関ヶ原の合戦において父と共に東軍として参加して戦功を挙げ、1万石を与えられて[[大名]]に取り立てられ([[野村藩]])、事実上幕府から分家を認められた。嫡子の頼長は関ヶ原の戦い後も父とともに[[豊臣秀頼]]に仕えた。また、父の創始した茶道[[有楽流]]を継いだ。
 
四男長政と五男尚長は元和元年(1615年)に父が隠棲した際に、有楽斎が大和国内に領する3万石を分割して1万石ずつを与えられた。長政が[[戒重藩]](後の[[芝村藩]])、尚長が[[柳本藩]]の藩祖であり、いずれも1万石の[[外様大名]]として[[明治]]まで続いた。なお、有楽斎自身が隠居料として取った1万石は有楽斎の死とともに[[江戸幕府]]に収公されている。
 
== 逸話 ==
* 『[[義残後覚]]』・『[[明良洪範]]』など後世の編纂書では[[本能寺の変]]の際に信忠に自害を進言したのは長益だとされ、その後の逃亡劇を、[[京都|京]]の[[民衆]]たちに「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出て おた(織田)の原なる名を流す」と皮肉られたという。
* 有楽斎が堺占拠の際捕らえられた[[今井宗薫]]を赦すなど穏健的行動をとっていたのに対し、嫡男頼長は[[片桐且元]]殺害を計画し信雄を大坂方の総大将に担ごうとするなど、過激的行動を幕府側にも警戒されており、有楽斎とも対立していた。また頼長は冬の陣では病と称して攻撃に加わらないなどの不審な行動が多く、夏の陣前に「自分を司令官にしろ」と主張して諸将の反対にあい出奔している。有楽斎の大坂城退去は、この頼長の奇行も原因のひとつとされている。
* [[高麗茶碗|大井戸茶碗]]<small>(おおいどちゃわん)</small>は、長益が所持していた経歴から「有楽井戸」などの別名を持つ。
* [[ツバキ]]の一品種「太郎冠者」は別名「有楽」ともいうが、この名は長益(有楽斎)がこの品種を愛したことによる。学名もCamellia urakuである<ref>[http://camellia.unipv.it/camelliadb2/index.php?option=com_content&task=view&id=15&Itemid=27&download=U| 国際ツバキ協会 Web Camellia Register Uの項]11ページを参照
</ref>
 
== 有楽町 ==
[[東京都]][[千代田区]]の[[有楽町]](ゆうらくちょう)という町名は、長益の号「有楽斎」に由来し、茶人としても名をはせた有楽斎は関ヶ原の戦いのあと、徳川方に属し、[[数寄屋橋]]御門の周辺に屋敷を拝領し、その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、[[明治]]時代に「有楽町」と名付けられたとの説がある<ref>{{Cite web| url = http://koujimachi.net/newtown/yuraku.html | title = 麹町わがまち情報館 | publisher = 麹町出張所地区連合町会 | accessdate = 2016-10-13 }}</ref>
<ref>{{Cite web| url = http://koujimachi.net/newtown/yuraku.html | title = 麹町わがまち情報館 | publisher = 麹町出張所地区連合町会 | accessdate = 2016-10-13 }}</ref>
 
かつて大阪にも、有楽斎が居住したといわれる場所に有楽町(うらくちょう)が存在した。 現在の[[大阪市]][[西成区]][[天下茶屋]]3丁目の一部と[[岸里|岸里東]]1丁目の一部で、[[天下茶屋駅]]と[[聖天坂駅]]の[http://map.yahoo.co.jp/maps?p=%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E8%8C%B6%E5%B1%8B3-12&lat=34.63432188&lon=135.49799476&ei=utf-8&sc=3&datum=wgs&gov=27122019003&ac=27122&az=19.3.12&layer=pa&v=3 中間に位置する区域]は、有楽町が正式な[[住居表示]]上の町名であった<ref>川端直正 「[http://www.kamamat.org/yomimono/nisinari-kusi/kusi-mokuji.html 西成区史]」 西成区市域編入40周年記念事業委員会 1968 [http://www.kamamat.org/nisinari-ku/ku-zenbou/kusi-1-1.html 第1編 総説 第1章 西成区の誕生]</ref>。 太平洋戦争後の度重なる区画整理などによって1973昭和48(1973年)に消滅。 なお現在も「有楽」の二字を冠したマンションなどが点在する。
 
== 織田長益を主題とした作品 ==