「カスパー・ハウザー」の版間の差分
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もし歴史が全くの想像力で片付けてよいものなら、カスパー・ハウザーは彼が思い出すという通りに、その幼児期はお城で暮らし、ナポレオンが失脚して後、いずこかへ匿われたのもそのためだとして説明がつくことだろう。幾人かは、だからこそその良心の責めに耐えかねた人間が、あの注目に値するボトルメールで助けを乞う手紙を書いたのではないだろうかと推測している。これは、恐らくは[[1816年]]9月にライン川上流で見つかったものといわれる。<br>
それには、「
王位の簒奪ということでは、バーデンの大公位もフランスの玉座もそれには当たらない。カール大公は[[1818年]]に死去しているし、それ以前にはだれも彼の「王位を簒奪」していないからであり、ナポレオンの子、後のナポレオン2世は、[[1816年]]にはまだ存命で、非嫡出子は当時一切の相続から根本的に締め出されていたからである。――こうして我々は、哀れなカスパーが奪われたとする第3の王座の可能性を考えなくてはならなくなる。
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