「一色義定」の版間の差分

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[[中郡 (京都府)|中郡]]・[[竹野郡 (京都府)|竹野郡]]・[[熊野郡]]のいわゆる奥丹後(現在の[[京丹後市]])を領した義定(長岡氏は[[加佐郡]]・[[与謝郡]]を領有した)は[[織田政権]]の丹後守護として天正9年([[1581年]])の[[京都御馬揃え]]にも参加し、織田氏による[[甲州征伐]]にも長岡氏(細川氏)と共に参戦している。隣国・[[但馬国]]の[[山名堯熙]](氏政)とも親しく旧守護家同士ということで親交を深めていた。姻戚関係にあったともいう。
 
また国許においては弓木城を居城にして城下町を形成し丹後北半国を統治した。天正10年(1582年)の[[山崎の戦い]]では直接の上役である明智光秀に味方する。一方、長岡氏は上司である明智光秀に背いた。光秀は山崎の戦いに惨敗して討ち取られ、これがその後の義定の立場を決定的に悪する要因となった
 
戦後、天下を掌握しつつあった[[豊臣秀吉|羽柴秀吉]]からの義定による謀反企図の報に接し、南丹後の長岡氏によって長岡氏の居城である[[宮津城]]内で謀殺された。その際、城内の家臣や城下の雑兵100人も[[松井康之]]、[[米田求政]]率いる軍勢に討ち取られ、弓木城も降伏した。なお、妻・伊也は降伏した際に長岡氏に戻っている。