「依田信蕃」の版間の差分
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'''依田 信蕃'''(よだ のぶしげ)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[武田氏#甲斐武田氏|甲斐武田氏]]、[[徳川氏]]の家臣。
== 生涯 ==
=== 出生から武田家臣時代 ===
はじめ[[武田信玄]]に[[信濃国|信濃]][[先方衆]]として仕え、信玄の死後は引き続き[[武田
長篠の戦いで武田軍が大敗し[[徳川家康]]率いる徳川軍が反攻して来ると、僅かな手勢で堅固に守った。この間に病床にあった信守は死去する。信蕃が守将となり籠城が続行された。徳川方は攻めあぐね、城の周囲に複数の砦を築き、兵糧攻めにするしかできなかった。実に半年にも亘った攻防の末、結局力攻めでは落せないと判断した徳川方の申入れにより、全員の助命を条件に開城、[[高天神城]](静岡県[[掛川市]])に退去した。退去の際、城内を清掃したのち、整然と退去したとされている。後に[[駿河国|駿河]][[田中城]](静岡県[[藤枝市]]西益津)の城将となった。
=== 天正壬午の乱における動向 ===
天正10年([[1582年]])3月、[[織田信長]]による[[甲州征伐]]が始まると、信長に呼応した徳川家康に田中城を攻められたが、またしても堅固に備えを立てて落城の気配も見せなかった。攻めあぐねた家康は[[成瀬正一 (戦国武将)|成瀬正一]]に命じて開城の説得に当たらせるが、信蕃はこれを拒絶。さらに籠城を続けるうちに織田軍の攻撃で武田勝頼が自害し、その一族である[[穴山信君|穴山梅雪]]からの開城を勧める書簡を受けてから、ようやく[[大久保忠世]]に引き渡している。田中城開城後、家康より召抱えの要請を受けるが、「勝頼の安否の詳細が判らない内は仰せに従いかねる」と答えこれを謝絶。自領の[[春日城 (信濃国佐久郡)|春日城]]([[長野県]][[佐久市]]春日)へ帰還した。
同年6月2日、[[本能寺の変]]が起こり、[[北条氏直]]との戦い([[神流川の戦い]])に敗れた[[滝川一益]]が同20日に家臣・[[道家正栄]]の守る[[小諸城]](長野県[[小諸市]])に入ると、
7月12日、[[碓氷峠]]を越えて北条氏直の兵が進出すると信蕃はこれに抗し小諸城を放棄し、「蘆田小屋」へ退いて籠城した<ref name="平山272">{{Harvnb|平山
信蕃は同所でゲリラ戦を展開し、甲斐国若神子([[山梨県]][[北杜市]]須玉町若神子)まで進出していた北条軍の補給線を寸断した。また信蕃は徳川家康と連絡を密にしており、甲斐衆を主体とした家康の援軍が7月14日([[芝田康忠]]、辻弥兵衛)
これらの功績により信蕃は北条方の[[大道寺政繁]]が撤退した後の小諸城も任され、周辺の勢力が続々と信蕃の下に集ってきたが、これを好しとしない勢力は、北条方の信濃佐久郡
『[[依田記]]』『[[三河物語]]』によれば、天正11年([[1583年]])2月21日、岩尾城の[[大井行吉]]を攻略しようとするが、即座に落とせると考えた信蕃の意に反し、予想外の抵抗に遭い苦戦する。2月22日、実弟の信幸とともに敵の銃撃を受ける。信幸は同日に死去し、信蕃は2月23日に死去した。[[享年]]36。後に長男の松平(依田)康国が整備した[[蕃松院]]が墓所となる。同寺に信蕃の位牌と、信蕃夫妻の墓所とされる墓石塔が残る。
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== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |author = 平山優
== 関連作品 ==
* 戦国佐久([[佐藤春夫]])
{{DEFAULTSORT:よた のふしけ}}
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