「大伴家持」の版間の差分

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天平10年([[738年]])に[[内舎人]]と見え、天平12年([[740年]])[[藤原広嗣の乱]]の平定を祈願する[[聖武天皇]]の[[伊勢国|伊勢]][[行幸]]に従駕。天平17年([[745年]])に[[従五位|従五位下]]に叙せられ、翌天平18年([[746年]])3月に[[宮内省|宮内少輔]]、次いで6月に[[越中国#国史|越中守]]に任ぜられて地方官に転じる。[[赴任]]中の天平21年([[749年]])従五位上に昇叙される一方で、223首の[[和歌]]を詠んだ。
 
[[天平勝宝]]3年([[751年]])[[少納言]]に任ぜられて帰京後、天平勝宝6年([[754年]])兵部少輔、天平勝宝9年([[757年]])兵部大輔と[[孝謙天皇|孝謙]]朝後半は[[兵部省]]の次官を務める。この間の天平勝宝7年([[755年]])[[難波]]で[[防人]]の検校に関わるが、この時の防人との出会いが『[[万葉集]]』の[[防人歌]]収集につながっている。[[天平宝字]]元年([[757年]])に発生した[[橘奈良麻呂の乱]]では、越中国赴任時に深い交流を持った[[大伴池主]]を始めとして[[大伴古麻呂]]や[[大伴古慈斐]]ら一族が処罰を受けたが、家持は[[謀反]]に与せず処罰を免れる。しかし、乱の影響を受けたものか、翌天平宝字2年([[758年]])に[[因幡国#国史|因幡守]]に任ぜられ再び地方官に転出。翌天平宝字3年([[759年]])正月に[[国府町 (鳥取県)|因幡国国府]]で『万葉集』の最後の和歌を詠んだ。
 
天平宝字6年([[762年]])[[中務省|信部大輔]]に任ぜられ京官に復すが、[[淳仁天皇|淳仁]]朝で権勢を振るっていた[[太師]]・[[藤原仲麻呂]]に対して、[[藤原良継|藤原宿奈麻呂]]・[[石上宅嗣]]・[[佐伯今毛人]]の3人と[[暗殺]]計画を立案したする。しかし[[密告]]により計画は露見し、天平宝字7年([[763年]])に4人は捕えられてしまうここで藤原宿奈麻呂が単独犯行を主張したことから、家持は罪に問われなかったものの<ref>『続日本紀』宝亀8年9月18日条</ref>、翌[[天平宝字]]8年([[764年]])正月に[[薩摩国#国史|薩摩守]]へ[[左遷]]される[[報復]]人事を受けた。
 
なお、[[九州]]に下向していたためか、同年9月に発生した[[藤原仲麻呂の乱]]での動静は伝わらない。その後、[[神護景雲]]元年([[767年]])[[大宰府|大宰少弐]]に転じ、[[孝謙天皇|称徳]]朝では主に九州地方の地方官を務めている。
 
[[神護景雲]]4年([[770年]])9月に称徳天皇が[[崩御]]すると[[弁官|左中弁]]兼[[中務省|中務大輔]]と要職に就き、11月の[[光仁天皇]][[即位]]に伴って、[[正五位|正五位下]]に昇叙。[[光仁天皇|光仁]]朝では[[式部省|式部大輔]]・[[京職|左京大夫]]・[[衛門府|衛門督]]と京師の要職や[[上総国|上総]]・[[伊勢国|伊勢]]と大国の守を歴任する一方で、[[宝亀]]2年([[772年]])[[従四位|従四位下]]、宝亀8年([[777年]])従四位上、宝亀9年([[778年]])[[正四位|正四位下]]と順調に昇進する。[[宝亀]]11年([[780年]])[[参議]]に任ぜられて[[公卿]]に列し、翌[[天応 (日本)|天応]]元年([[781年]])には[[従三位]]に叙せられた。
 
[[桓武天皇|桓武]]朝に入ると、[[天応 (日本)|天応]]2年([[782年]])正月には[[氷上川継の乱]]への関与を疑われて[[解官]]されるなど、政治家として骨太な面を見ることができる。しかし、早くも同年4月には罪を赦され参議に復し、翌延暦2年([[783年]])には先任の参議であった[[藤原小黒麻呂]]・[[藤原家依]]を越えて[[中納言]]に昇進する。また、[[皇太子]]・[[早良親王]]の[[春宮坊|春宮大夫]]も兼ねた。さらに、延暦3年([[784年]])には[[征夷大将軍|持節征東将軍]]に任ぜられて、[[蝦夷征討]]の責任者となる。翌延暦4年([[785年]])4月には[[陸奥国]]に仮設置していた[[多賀郡|多賀]]・[[階上郡|階上]]の両郡について、正規の郡に昇格させて官員を常駐させることを言上し許されている<ref>『続日本紀』延暦4年4月7日条</ref>。
 
同年8月28日[[崩御#薨去|薨去]]。最終[[官位]]は中納言従三位兼行春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍。兼任していた[[陸奥按察使]]持節征東将軍の職務のために滞在していた[[陸奥国]]で没した<ref name="kb">『公卿補任』</ref>、あるいは[[遙任]]の官として在京していたとの両説がある。したがって死没地にも[[平城京]]説と[[多賀城]]説とがある。
 
没した直後に[[藤原種継暗殺事件]]が造営中の[[長岡京]]で発生、家持も関与していたとされて、追罰として、[[埋葬]]を許されず<ref>長谷部将司は種継暗殺事件は家持の死から1か月後の事件であるにも関わらず、家持の埋葬が済んでいなかったとするのは不自然であり、家持の死去の場所は長岡京の外すなわち陸奥国であるとし、同時に種継暗殺への関与を疑問視する(長谷部将司「〈崇道天皇〉の成立とその展開―九世紀における〈天皇〉の位相―」根本誠二 他編『奈良平安時代の〈知〉の相関』(岩田書院、2015年) ISBN 978-4-87294-889-9)。</ref>、官籍からも除名された。子の[[大伴永主|永主]]も[[隠岐国]]への[[流罪]]となった。なお、家持は没後20年以上経過した延暦25年([[806年]])に[[恩赦]]を受けて[[従三位]]に復している。