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Hydraid7 (会話 | 投稿記録)
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{{出典の明記|date=2016年10月}}
 
'''上洛'''(じょうらく)とは、主に[[京都]]に入ることを意味する言葉である。'''入洛'''とも言った。<!--対義語に、'''下洛'''(げらく)がある。下洛とは、京都を離れることである。また、上洛という煌びやかなイメージとは逆に、落ちぶれた有様を喩えることもある。←「下洛」とは山法師が京中を侵すことを言った(平家物語)。下洛が出京と同義で使われた実例は?-->
 
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上洛の「洛」は「[[洛陽]]」を意味する。平安時代、[[平安京]]を指して中国の都の名を借りて「洛陽」と呼ぶことがあった。やがてその一字を採って「洛」だけでも平安京を表すことになった。また一説に、左京を洛陽、右京を[[長安]]と呼んだ<ref>左京を洛陽、右京を長安と号したとの記述は、平安遷都から500年余経った鎌倉末期の「[[拾芥抄]]」に初めて出てくる。</ref>。
{{要出典|
しかし当時、「長安」である右京は居住に適さない湿地が多かったことなどから平安時代の後半には既に廃れ、市街地は「洛陽」である左京だけとなった。このため「洛陽」は都と同義になり、その一字「洛」をもって京都を指すようになり「上洛」「入洛」「京洛(けいらく)」「[[洛中]]」「[[洛外]]」などの言葉が生まれた。上洛・入洛は共に京都に入ること言い、京洛は京の都のことを指した。また洛中は京域内を指し、洛外はその外周地域を指した。なお、狭義では、上洛とは[[室町時代]]末期([[戦国時代_(日本)|戦国時代]])に、京都にいる[[室町幕府|足利幕府]]の[[征夷大将軍|将軍]]を保護することを意味し<!--史実として「上洛」だけをもって「将軍を保護する」ことまで意味したのかはなはだ疑わしい。戦国時代の上洛がその大名の権威を高めたとは言えても「将軍を保護することを意味した」というのは飛躍がある-->、結果として全国支配に必要な権威をもたらすことであるとされた。詳細は以下に記す。|date=2016年5月}}
 
== 戦国時代の上洛と政権交代 ==
=== 応仁の乱と各守護の領国入り ===
そもそも[[室町時代]]においては、多くの[[守護大名]]は京都に常駐していた。それら守護大名が[[守護]]に任じられた領国と京都を往復する事は頻繁にあり、広義においての上洛は珍しい事でもなかった。
そもそも[[室町時代]]においては、多くの[[守護大名]]は在京義務が課せられ京都に常駐していた。そのため守護大名が[[守護]]に任じられた領国と京都を往復する事は頻繁にあり、上洛は珍しい事でもなかった。しかし、[[応仁の乱]]により幕府に守護大名の動きを制御する力が無い事が明白であった。そして、文明9年([[1477年]])の乱の終結とともに西軍は解体され、周防国守護[[大内政弘]]などの西軍諸将はそれぞれの領国に帰国を開始したが、能登国守護[[畠山義統]]と、[[足利義視]]・[[足利義稙]]親子を伴って帰国した美濃国守護[[土岐成頼]]は、京の自邸を焼き払って反逆の姿勢を示し(これは在京義務の放棄も意味するものであった)、この炎は仙洞御所にも類焼が及んだ。また、講和に反対し先に下向した[[畠山義就]]は、その後も[[河内国]]と[[大和国]]で戦闘を繰り広げた。同じく最後まで講和に反対した東軍の加賀半国守護[[赤松政則]]は、加賀ではなく[[浦上氏]]が待つ播磨国に下向し実効支配を行なった<ref>渡邉大門『戦国誕生 中世日本が終焉するとき』第四章</ref>。
 
また、応仁の乱の最中には越前国の[[朝倉氏]]、尾張国の[[織田氏]]、安芸国の[[武田氏]]、播磨国の[[浦上氏]]、出雲国の[[尼子氏]]など、領国の守護代や分郡守護が調略の対象となった。これらの調略により、特に[[山名氏]]と[[斯波氏]]の領国は深刻な事態に陥っていた。このため、東西問わず、多くの守護大名は危機感を持って帰国し、そして在京義務は放棄され、上洛は稀なものとなった<ref>渡邉大門『戦国誕生 中世日本が終焉するとき』第五章</ref>。なお、関東については室町幕府の支配は、享徳3年([[1454年]])の[[享徳の乱]]の収拾に失敗し、既に頓挫していた。
 
=== 将軍権力の解体 ===
この様な状況において、積極的に上洛し在京義務を果たしたのは、[[三管領]]の氏族である山城国守護[[畠山政長]]、尾張国守護[[斯波義寛]]であった。第9代将軍[[足利義尚]]、第10代将軍足利義稙の近江遠征([[長享・延徳の乱]])、明応2年([[1493年]])の足利義稙の河内遠征([[畠山氏#畠山総州家|畠山総州家]]征伐)に従軍し、将軍権力による復権を試みたが、その遠征の最中に[[細川政元]]が起こしたクーデターにより、畠山政長は敗死、斯波義寛は越前回復の夢を絶たれ、足利義稙は幽閉され、新たな将軍には[[足利義澄]]が擁立された([[明応の政変]])。更に、将軍直轄の軍事力であった[[奉公衆]]も解体され、これ以降の将軍は遠征どころか守護の庇護下に入る状態にまで零落することとなった<ref>渡邉大門『戦国誕生 中世日本が終焉するとき』第六章</ref>。
 
=== 上洛戦の始まり ===
将軍の座を追われた足利義稙は諸国を流浪し、明応8年(1500年)に大内義興を頼って山口に入国した。一方の細川政元は半将軍と呼ばれるほどの権力を振るったが、永正4年(1507年)に暗殺され、これを収拾した細川澄元が跡を継いでいた(永正の錯乱)。永正4年(1507年)11月、大内義興は諸大名に号令を発して周防を出立し、細川高国の勢力も併呑し、永正5年(1508年)6月に上洛を果たし、7月1日には足利義稙が将軍職に復帰した。これが戦国大名が上洛により政権を覆した前例となり、以降、下記のように各地の戦国大名が上洛を果たすようになった。
 
{{要出典|
しかしながら多くの戦国大名は、室町将軍や[[朝廷]]から、守護職や官位を受けており、使者を介しての京都との連絡は保っていた。[[上杉謙信]]や[[織田信長]]のように、さほど多いとはいえない兵、あるいは僅かな供を連れて、広義での上洛を行った例もある。このような状況下において、[[天皇]]や室町将軍が在住する京都に自らが軍勢を連れて上洛し、室町将軍を保護する立場になる事は、大きな権威をもたらす事であった。すくなくとも室町将軍は形式的には全国の支配者であり、その保護者となる事は、政治的影響力を高める事となった。しかしながら戦国大名が上洛を企図しても、実際には領国における抗争に妨げられ、成功した者は少ない。|date=2016年5月}}
しかしながら[[16世紀]]半ばになると、[[応仁の乱]]以後100年以上も続く政局不安状態はすでに常態と化していた。少なくない在京守護が、[[下克上]]や[[主君押込]]によって、[[守護代]]や[[国人]]領主などの家臣筋からのしあがった[[戦国大名]]によって、実質的な支配権を奪われた。支配権を保った守護大名も、そうならないために領国に常駐せざるを得なくなり、いわゆる守護大名の戦国大名化が起きた。そのため戦国大名はほとんどが自国に常駐し、京都に上る事、すなわち上洛はほとんどなされなくなった。京都に常駐した数少ない大名である[[細川氏]]や[[三好氏]]は、領国が京都とは隣接している。
 
=== 上洛勢力と政権交代 ===
しかしながら多くの戦国大名は、室町将軍や[[朝廷]]から、守護職や官位を受けており、使者を介しての京都との連絡は保っていた。[[上杉謙信]]や[[織田信長]]のように、さほど多いとはいえない兵、あるいは僅かな供を連れて、広義での上洛を行った例もある。このような状況下において、[[天皇]]や室町将軍が在住する京都に自らが軍勢を連れて上洛し、室町将軍を保護する立場になる事は、大きな権威をもたらす事であった。すくなくとも室町将軍は形式的には全国の支配者であり、その保護者となる事は、政治的影響力を高める事となった。しかしながら戦国大名が上洛を企図しても、実際には領国における抗争に妨げられ、成功した者は少ない。|date=2016年5月}}
*応仁元年([[1467年]])、[[応仁の乱]]が発生、文明9年([[1477年]])に西軍が解散し、応仁の乱が終結。
*明応2年([[1493年]])、[[管領]][[細川政元]]が第10代将軍[[足利義稙]]を追放、第11代将軍[[足利義澄]]を擁立した([[明応の政変]])。
*永正5年([[1508年]])、[[大内義興]]が管領[[細川澄元]]を破り[[周防国]][[大内氏館]]から'''上洛'''、第10代将軍足利義稙を奉じていた(10年で帰国)。
*7正17年([[15271520年]])、細川澄元の重臣[[柳本賢治三好之長]]が管領[[細川高国]]と[[武田元光]]を破り[[波国]][[神尾山勝瑞城]]から'''上洛'''、足利義稙に迎えられた(2ヶ月で敗死:[[等持院の戦い]])
*大永7(1527年)、[[細川晴元1521年]])、足利義稙柳本賢治らと同盟堺に出奔たため、細川高国は[[阿波播磨国]][[勝瑞城]]から'''洛'''、[[堺公方]]が庇護していた第12代将軍[[足利義]]を奉じてい擁立した。
*大永87年([[15281527年]])、[[朝倉宗滴]]が柳本賢治]]が細川高国・[[武田元光]]を破り[[越前丹波国]][[一乗谷朝倉氏遺跡|一乗谷神尾山城]]から'''上洛'''、第12代将軍[[足利義晴桂川原の戦い]]を奉じていた(5ヶ月で撤退)。
*享禄4大永7([[1531(1527]])、[[浦上村宗細川晴元]]が管領の重臣[[畠山義堯三好元長]]、細川晴元を破りが柳本賢治らと同盟し[[播磨阿波国]][[三石勝瑞城]]から'''上洛'''、[[堺公方]]・[[足利義維]]を奉じていた(3ヶ月で敗死)
*大永8年([[1528年]])、[[朝倉宗滴]]が柳本賢治らを破り[[越前国]][[一乗谷朝倉氏遺跡|一乗谷]]から'''上洛'''、足利義晴を奉じていた(5ヶ月で撤退:[[川勝寺口の戦い]])。
*享禄4年([[1531年]])、[[浦上村宗]]が管領[[畠山義堯]]、細川晴元を破り[[播磨国]][[三石城]]から'''上洛'''、足利義晴を奉じていた(3ヶ月で敗死:[[大物崩れ]])。
*天文3年([[1534年]])、[[六角定頼]]が細川晴元と和睦し、足利義晴が[[近江国]][[桑実寺]]から'''上洛'''。
*天文10年([[1541年]])、[[木沢長政]]が管領細川晴元を破り[[河内国]][[飯盛山城]]から'''上洛'''、足利義晴を奉じる予定であった(4ヶ月で敗死:[[太平寺の戦い]])。
*天文18年([[1549年]])、[[三好長慶]]が管領細川晴元を破り[[摂津国]][[越水城]]から'''上洛'''。
*天文21年([[1552年]])、第13代将軍[[足利義輝]]が三好長慶と和睦し、近江国[[朽木村|朽木谷]]から'''上洛'''(1年で都落ち)。
*永禄元年([[1558年]])、[[六角義賢]]が三好長慶と和睦し、足利義輝が[[山城国]][[将軍山城]]から'''上洛'''。
*永禄4年([[1561年]])、六角義賢が三好長慶と足利義輝を破り近江国[[観音寺城]]から'''上洛'''(2ヶ月で撤退:[[教興寺の戦い]])。
*永禄8年([[1565年]])、[[三好三人衆]]らが足利義輝を暗殺、翌年から[[阿波公方]]・[[足利義栄]](後の第14代将軍)を擁立([[永禄の政変]])
*永禄11年([[1568年]])、[[織田信長]]が[[三好三人衆]]らを破り[[美濃国]][[岐阜城]]から'''上洛'''、第15代将軍[[足利義昭]]を奉じていた。
*元亀4年([[1573年]])、織田信長が再上洛、同年に挙兵した足利義昭と三好三人衆を破り、義昭を追放した([[槇島城の戦い]])
 
=== 各大名の上洛 ===
{{要出典|
[[大内義興]]の上洛の[[大義名分]]は、旧秩序の回復を目的、すなわち足利幕府の支配を回復させることにあった{{要出典|date=2016年11月}}。だが、[[大内氏]]の場合、それが完成する前に[[尼子氏]]ら反大内勢力の挙兵に阻まれて領国への帰還を余儀なくされた。[[六角定頼]]の場合は、領国が京都の隣の近江であるものの大内義興と同様の名目で入京しており、幕政にも[[口入]]の形で関与しているところも義興と共通している。だが、定頼の没後の[[六角氏]]は[[浅井氏]]の反抗など国内問題に追われ、[[三好長慶]]の上洛を阻止できずに衰退していく。
 
それに対し天文18年([[1549年]])の三好長慶の上洛になると様相が変わってしまう。[[細川晴元]]は堺公方の[[足利義維]]を将軍位に着けずに[[足利義晴]]をそのまま将軍に擁いたが、三好長慶は堺公方の足利義維も[[足利義輝]](義晴の子)も両方奉じず、何年も京を支配した。また、官位は従四位下、修理大夫、幕府の役職は相伴衆と三好家の家格では考えられないような地位が与えられていた。なお、足利義輝の官位は、従四位下征夷大将軍、その後、従三位であった。また、永禄8年([[1565年]])に足利義輝を暗殺したにも関わらず[[三好三人衆]]は半年以上、[[足利義栄]](義維の子)を擁立しなかった<ref>若松和三郎『戦国三好氏と篠原長房』</ref>。一方、[[織田信長]]の上洛は従来通り将軍候補である[[足利義昭]]を奉じて行われた。しかし、織田信長は天正元年([[1573年]])には足利義昭を京都から追放しており、しかもその翌年には、織田信長の官位は従三位参議に達し、室町幕府の支配力や権威を必要としない政権となっていた。
それに対し三好長慶の目的は、将軍を傀儡としてその影として実権を掌握し、畿内を支配することにあった。しかし、織田信長は、古い権威ではなく武力によって新しい秩序を作ろうと考え、彼の上洛はその足がかりとして行われた。足利義昭を奉じて上洛したことは、既に一時的な旧秩序の回復ではなく、武力による新秩序の形成と全国支配の手段にすぎなかった。
 
なお、織田信長が上洛によって天下を取る一歩手前までいった事から、江戸時代の軍記物等では、全ての戦国大名が上洛を目指したかのような解釈が広がっているが、異論も多い有名なではえば、駿河国の[[今川義元]]が永禄4年([[1560年]])に上洛を目指尾張に遠征たが、[[桶狭間の戦い]]で頓挫戦死たが、小瀬甫庵の『信長記』等の軍記物では上洛が目的であったとされる。ま。一方、足利義昭の呼びかけにより、[[甲斐国]]の[[武田信玄]]が元亀年間に大規模な美濃・三河・遠江方面への軍事的侵攻である[[西上作戦]]を行い、また、越後の洛を目指杉謙信や、安芸の毛利輝元も織田信長と敵対したが、自らの急死によっもし入京し頓挫したとさば将軍を奉じ。しかしながらこ上洛2例形式ついてはまっていた。なお天正10年(1582年)の当に上洛能寺意図があったかについて変で異論、明智光秀足利義昭を奉じてたという説もある<ref>藤田達生『本能寺の変の群像』</ref>
 
{{要出典|
さらには全ての戦国大名が天下を取る事を狙っていた訳ではない。[[毛利元就]]が自分の子孫は天下を望むべからずと遺言した事は有名な話である。[[後北条氏]]は初代の[[北条早雲|伊勢宗端]](北条早雲)が室町幕府の[[政所]]執事を務めた[[伊勢氏]]の分家出身であったが、二代目の[[北条氏綱]]以降[[鎌倉幕府]]の[[執権]]・[[北条氏]]の後継を称して関東での勢力圏拡大には熱心であったが、天下取りの意図は見えなかった。
 
また、上洛がすなわち天下取りの必須条件だったかのように言われる事もあるが、これにも異論がある。天下を取る可能性があった戦国大名として名前があがる[[伊達政宗]]や九州の[[島津氏]]、あるいは最終的に天下を取る事になった[[徳川家康]]も、室町将軍を擁して上洛した事は一度も無い。|date=2016年5月}}
 
== その後の上洛戦 ==
本能寺の変後、[[山崎の戦い]]に勝利し、豊臣秀吉が[[高松城 (備中国)|備中高松城]]から上洛を果たし[[豊臣政権]]を築いた。また、関が原の戦いに勝利し徳川家康が[[武蔵国]][[江戸城]]から上洛を果たし[[江戸幕府]]を開いた。
 
==脚注==
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== 関連項目 ==
*[[上京]]
*[[下向]]
*[[江戸幕府]]([[徳川将軍家]])の上洛
**[[徳川家康]]・[[徳川秀忠]]・[[徳川家光]]・[[徳川家茂]] - 上洛を行った将軍。
**[[二条城]] - 在京中の宿所として徳川家康が造った城。
65 ⟶ 76行目:
[[Category:武士]]
[[Category:日本の武家政権]]
 
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