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。
故郷の町で小学校を終えた後はリュブリャナの工業系高等学校(Realka)に進んだ。この高等学校時代に創作を始め、最初は[[ハインリヒ・ハイネ]]やスロヴェニアの国民詩人[[フランツェ・プレシェーレン]]など[[ロマン派]]の影響の色濃い詩を書いていたが、1893年に[
<ref>Kos, Janko et al.: Slovenska književnost, Ljubljana, Cankarjeva založba, 1982.</ref>
<sup>[1]</sup>
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その後1896年に工学専攻で[[ウィーン大学]]に進んだが、まもなく文学や哲学に熱中して[[ボヘミアン]]的な奔放な生活に身を投じ、同時代のヨーロッパ文学、中でも[[デカダン派]]や[[象徴主義]]の影響を貪欲に吸収した
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。同時にまた、若きスロヴェニア人作家[
<sup>[1]</sup>
。
1897年の春にはいったんヴルフニカに帰郷したものの、同年秋に母が亡くなると翌1898年に再びウィーンに戻り、1909年まで10年あまりウィーンにとどまった。再びウィーンで暮らし始めると、1899年から労働者の町[
<sup>[1]</sup>
。しかしキリスト教的社会主義、特にクレック率いる[
<ref>Zver, Milan: Sto let socialdemokracije na Slovenskem, Ljubljana, Nova obzorja, 1996.</ref>
。
1909年に最終的にウィーンを離れてからは、弟カルロが司祭を務める[[サライェヴォ]]に一時身を寄せた後、リュブリャナの[
1907年の選挙戦以来自らの政治的主張を訴える文章を多数発表するようになっていた彼は、これ以後、執筆活動のかたわらスロヴェニア各地を精力的に飛び回って講演活動に奔走するようになった。1907年に[[トリエステ]]で行った講演「スロヴェニア人とスロヴェニア文化」、1913年にリュブリャナで行った講演「スロヴェニア人とユーゴスラヴ人」などが特に有名で、これらの講演によって、南スラヴ人の政治的融合による連合国家の建設を目指しつつ、同時に文化や言語の面では個々の民族の独立性を維持すべきであるという持論を熱烈に訴え続けた
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