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'''上田 政盛'''(うえだ まさもり)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[扇谷上杉家]]の家臣。[[相模国]][[守護代]]・[[上田正忠]](政忠)の後継者と推定されている。ただし、[[黒田基樹]]氏は、「政盛」の実名は軍記物に現れるのみでかつ近世初期までに成立したものに見られないことからこれを採用できないとしている<ref>{{harvnb|黒田基樹|2014}}</ref>。
 
出自は[[武蔵七党]]の[[西党]]の流れを汲む[[上田氏]]の嫡流。
 
[[長享]]元年([[1487年]])からの[[長享の乱]]で活躍し、対立する[[山内上杉家]]領であった[[横浜港#神奈川湊|神奈川湊]]を支配下に置くが、[[永正]]2年([[1505年]])に主家が山内上杉家に降伏したためにこれを奪われる。これを恨んだ政盛は永正7年([[1510年]])6月、当時相模西部を制圧していた[[北条早雲|伊勢宗瑞]]の調略に応じて相模国境に近い[[武蔵国]][[権現山城]](現在の[[神奈川県]][[横浜市]][[神奈川区]])で挙兵した<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946584/52 「武家事紀巻第三 武統要略」]{{harv|素行子山鹿高興|1915|p=64}}</ref>
 
これに対して扇谷上杉家の[[上杉朝良]]・山内上杉家の[[上杉憲房 (戦国時代)|上杉憲房]]は7月に権現山城を包囲して、援軍に駆けつけた伊勢(北条)軍を撃破する。政盛は激しく抵抗したものの、権現山城は陥落して政盛は戦死したとも正忠ら一族と共に宗瑞の許に逃れたとも言われている。その後、正忠は[[小田原市|小田原]]で病死したとされている。ただし、後の[[小沢原の戦い]]において扇谷上杉家の将に「'''上田蔵人'''」と名乗る人物が記録されているため、政盛あるいはその後継者が扇谷上杉家に復帰した可能性もある。
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==参考文献==
*{{Cite|和書|author=黒田基樹|chapter=総論・武蔵上田氏の系譜と動向|editor=黒田基樹|title=武蔵上田氏|series=論集戦国大名と国衆15|publisher=[[岩田書院]]|year=2014|pages=7-49|ref=harv}}
*{{Cite|和書|author=素行子山鹿高興|title=武家事紀 上巻|publisher=山鹿素行先生全集刊行会|series=山鹿素行先生全集|year=1915|ref=harv}}
==脚注==
{{reflist}}